イラクのナショナリスト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/20 17:30 UTC 版)
「イラクのナショナリズム」の記事における「イラクのナショナリスト」の解説
イラクのナショナリズムは古代シュメールやバビロニア、アッシリアといった、文明のゆりかごであるメソポタミアを基調として語られることが多い。 特に、バビロニアを統治していたネブカドネザル2世とクルド人ムスリムの指導者であったサラーフッディーン(サラディン)はイラクのナショナリズムの象徴的な存在となっている。 汎アラブ主義が台頭してきた1920年代にイラクにおけるナショナリズムの原型が出来上がった。1930年代までにイラクの知識人層においてイラクの国家や領土に関するアイデンティティが形成され、第二次世界大戦を通して発展した。イラクのナショナリズムとアラブ国家としてのナショナリズムには多少乖離が存在していたが、これらは互いに影響し合い、同化してきた。イラクのナショナリズムはアル・ハティフのような政党新聞において、国内の文化によってイラクのナショナリズムを高め、アラブ文化を報道することによってアラブのナショナリズムを示すなど、アラブのナショナリズムと相互補完する形で主張されてきた。 ハーシム家による王政が行われていた時代には、アラブの枠組みからはみだす形でのイラクのアイデンティティが語られることも一般的であり、イラクの土地や部族、イラク独自の詩や文学を強調した作品の出版や教育が行われていた。1930年代はじめに、イラクの歴史家はイギリスからの独立をイラクの歴史において現在のイラクの原型となるアイデンティティを備える国家が初めて形成された瞬間とし、"大イラク革命"と呼んでいる。 初期のイラクのナショナリズムについてはっきりと表明した知識人にはアブド・アル=ラッザーク・ハサニやアッバース・アッザウィがいる。ハサニはイギリス委任統治領メソポタミアについて、1930年代に出版された自著イラク統治の歴史(1950年代に第2版発行)の中で厳しく批判した上で、イラク王国初代国王ファイサル1世を支持し、イラクのナショナリズムについて強い支持を表明している。ファイサル1世による書簡を含むこの作品において、ファイサル1世はその書簡の中で宗教や部族による対立なしにイラクのナショナリズムを形成する難しさを述べている。ファイサル1世は教養人のスンナ派と非教養人のシーア派、中央政府による統治に反対するクルド人によってイラクが構成されていると述べている。アッザウィは2つの支配の中のイラク(オスマン帝国とイギリス帝国による支配)を記し、イラク政府より賞賛された。ハサニとアッザウィの作品は1935年から1965年まで非常に人気があり、第2版、第3版が発行されたこれらの作品は以後のナショナリズム形成に影響を与えた。 アブドルカリーム・カーシムはイラクにおけるアラブ人とクルド人を対等とみなす形でのナショナリズム形成を促進し、クルド語は単にカーシム政権下において合法的に使用される言語というだけでなく、クルド人の居住地域とイラクのその他の地域どちらにおいてもすべての教育機関においてクルド語の教育が行われるようにし、クルド語用のアラビア文字の使用を促進した。カーシム政権下では、イラクの文化的なアイデンティティに関しては民族的なアイデンティティの観点から見たアラブ人とクルド人の共栄に重点が置かれており、クルド人のナショナリズム(英語版)をイラクのナショナリズムやイラクの文化に取り込む方針がとられ、"イラクはアラブ国家というだけでなく、アラブ・クルド国家である...(中略)クルド人のナショナリズムに対するアラブ人の認識は我々が国家として連帯していることの証明である。我々は第一にイラク人なのであって、アラブ人、クルド人といった区分はその後に来るものなのだ"と述べている。"イラクにおけるクルド人の権利の保証"政策を含むカーシム政権下のクルド人政策においては、イラン国内に住むクルド人との統一を図る試みがなされ、イラク、シリア、イランに居住するすべてのクルド人を統一するためにイランも協力するとの返答を引き出した 。カーシム政権のクルド人政策はクルド人に非常に人気があり、カーシム支持者のクルド人は彼を"アラブ人とクルド人のリーダー"と呼んだ。 クルド人のリーダーであったムスタファ・バルザニ(英語版)はクルド人がイラク国民になるための援助を行うと表明し、1958年に"長く苦しんできたすべてのクルド人同胞を代表して、今一度私は王政とその後に反動で形成された共和制という名のギャングに終わりを告げ、革命が行われたことに対してカーシムとイラク人、クルド人とアラブ人を祝福する。"と述べている。バルザニはカーシムに対して、クルド人の難民やディアスポラがイラクに帰還する許可を出すよう要請し、イラクへの忠誠を誓った上で、"英明なる指導者よ。同胞クルド人難民の愛する故国への帰還を可能にし、人々を、共和国を、故国を守るこの度の栄光に浴することができることに、私は心からの感謝を表明する"と述べた。 サッダーム・フセインとイラクのバアス党はバビロニア人と古代アッシリア人がアラブ人の祖先であると主張することで、イラクにおける古代バビロニアやアッシリア文明とアラブのナショナリズムを融合させようとした。そして、サッダーム・フセインと彼の支持者はメソポタミア人の文化遺産とアラブのナショナリズムには何も対立することなどないと主張した 。 サッダーム・フセインは、イラクの大統領就任期間中、自身を若き日のネブカドネザル2世と結びつけ、絵画においてはアラブ人とクルド人のかぶりものをした姿で描かせていた。サッダーム・フセインは自身とバアス党を、イラク出身であり、エルサレムにおける十字軍との戦いにおいてムスリムやアラブ人のリーダーであったサラーフッディーンにもなぞらえて表現した。
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