イラクのクウェート侵攻からサッダーム政権の崩壊まで(1990~2003年)
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「日本とイラクの関係」の記事における「イラクのクウェート侵攻からサッダーム政権の崩壊まで(1990~2003年)」の解説
1990年8月2日、イラクのサッダーム大統領はクウェートに対して戦争を仕掛けた。先年のイランは8年の戦争を戦い抜くことができたが、小国のクウェートはイラク軍を相手にまともに抗戦することも叶わず、首長のサバーハ家一族は、射殺されて殉国したシェイク・ファハド・アル=サバーハを除いてみな国を捨てて逃亡し、8月4日にはイラク軍がクウェート全土を占領した。戦術的には、イラクの完全勝利である。だが、諸外国から諸手の賛成を受けたイラン侵攻とは正反対に、クウェート侵攻は、イラク軍の即時無条件撤退を求める国連安保理決議660やイラクへの経済制裁を科す同決議661が立て続けに採択されるなど、国際的な非難を浴びる結果となった。イラクは、戦術で勝って戦略で負けたのである。翌1991年1月17日には常任理事国の米英仏(中ソは不参加)や湾岸諸国から構成された多国籍軍による軍事侵攻を受けて(湾岸戦争)、イラクは多国籍軍の攻勢を支え切れず3月3日に停戦を受け入れた。 イラクによるクウェート侵攻は、日本とイラクの関係を決定的に悪化させた。特筆すべきは、サッダーム政権のイラクが500人以上もの日本人をバグダード市内の「マンスール・メリア・ホテル」に閉じ込めて人質として拘束した事件である。当時、イラクのスポークスマンが「彼らは人質ではなくゲストだ」などという支離滅裂な抗弁をして、お茶の間を騒がせていたことは記憶に新しい。日本は、国連安保理決議661を通じてイラクを制裁した。また、もともと1990年11月中旬に執り行われた明仁天皇の即位の礼にはクウェート侵攻が起こる前にイラク要人を招待していたのだが、クウェートの侵攻を受けて宮内庁と外務省はイラク人の招待を取り消した。翌1991年1月には、海部俊樹首相がイラクに対してクウェートの侵攻・併合を抗議。同年9月、在イラク日本大使館から大使を引き揚げた。事実上の国交断絶である。 2003年3月20日、アメリカ軍を中心とした有志連合がイラクに侵攻。同年4月9日、バグダードが陥落。サッダーム政権の崩壊が白日の下に晒された。
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