イラクのクウェート侵攻からサッダーム政権の崩壊までとは? わかりやすく解説

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イラクのクウェート侵攻からサッダーム政権の崩壊まで(1990~2003年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 05:13 UTC 版)

日本とイラクの関係」の記事における「イラクのクウェート侵攻からサッダーム政権の崩壊まで(19902003年)」の解説

1990年8月2日イラクのサッダーム大統領クウェートに対して戦争仕掛けた先年イラン8年戦争戦い抜くことができたが、小国クウェートイラク軍相手まともに抗戦することも叶わず、首長サバーハ家一族は、射殺され殉国したシェイク・ファハド・アル=サバーハ除いてみな国を捨てて逃亡し8月4日にはイラク軍クウェート全土占領した戦術的には、イラクの完全勝利である。だが、諸外国から諸手賛成受けたイラン侵攻とは正反対にクウェート侵攻は、イラク軍即時無条件撤退求め国連安保理決議660イラクへの経済制裁科す決議661が立て続け採択されるなど、国際的な非難浴び結果となったイラクは、戦術勝って戦略負けたのである。翌1991年1月17日には常任理事国米英仏(中ソは不参加)や湾岸諸国から構成され多国籍軍による軍事侵攻受けて湾岸戦争)、イラク多国籍軍攻勢支え切れず3月3日停戦受け入れたイラクによるクウェート侵攻は、日本とイラクの関係決定的に悪化させた。特筆すべきは、サッダーム政権イラク500人以上もの日本人バグダード市内の「マンスール・メリア・ホテル」に閉じ込めて人質として拘束した事件である。当時イラクスポークスマンが「彼らは人質ではなくゲストだ」などという支離滅裂な抗弁をして、お茶の間騒がせていたことは記憶に新しい日本は、国連安保理決議661通じてイラク制裁したまた、もともと1990年11月中旬執り行われ明仁天皇即位の礼にはクウェート侵攻が起こる前にイラク要人招待していたのだが、クウェート侵攻受けて宮内庁外務省イラク人の招待取り消した。翌1991年1月には、海部俊樹首相イラクに対してクウェート侵攻併合抗議同年9月在イラク日本大使館から大使引き揚げた。事実上国交断絶である。 2003年3月20日アメリカ軍中心とした有志連合イラク侵攻同年4月9日バグダード陥落。サッダーム政権崩壊白日の下に晒された。

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