イラクにおける挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 02:08 UTC 版)
「アブドゥルマリク」の記事における「イラクにおける挫折」の解説
詳細は「ハーズィルの戦い」を参照 アブドゥルマリクはイスラーム国家全域にウマイヤ朝の支配を回復させることを最重要の課題としていた。そして最初に取り組んだ目標はイスラーム国家で最も裕福な地域であるイラクの再征服であった。イラクには多くの人口を抱えたアラブ系の部族が居住しており、イスラーム国家の兵力の大部分はこれらの部族から供給されていた。一方でエジプトは国庫に多くの歳入をもたらしていたものの、イラクとは対照的にアラブ人の共同体は小規模なものに止まり、兵力の供給源としては貧弱であった。さらにウマイヤ朝にとって軍の屋台骨であるシリアの軍隊がヤマン系とカイス系の部族の間で反目を続けていたため、新たな兵士の供給源が強く求められていた。アブドゥルマリクの前任者が擁していたおよそ6,000人のヤマン族の兵士はシリアにおけるウマイヤ朝の立場を強化することには貢献したが、イスラーム国家全体の支配を取り戻すにはあまりにも少数であった。マルワーンの政権樹立の立役者であるイブン・ズィヤードは、名目上はカイス系に属する部族を含むアラブの諸部族から広く兵士を採用することで軍の増強に着手した。 イブン・ズィヤードはアブドゥルマリクの父であるマルワーンからイラクの再征服の任務を与えられていた。当時イラクとその属領は、クーファを拠点とするアリー家支持派の指導者であるムフタール・アッ=サカフィーが支配する勢力と、バスラを拠点とするイブン・アッ=ズバイルの弟のムスアブ・ブン・アッ=ズバイル(英語版)が支配するイブン・アッ=ズバイル派の勢力に二分されていた。しかし、686年8月に起こったハーズィルの戦いで総勢60,000人のイブン・ズィヤードの軍隊が遥かに小規模であったイブラーヒーム・ブン・アル=アシュタルの率いるムフタールのアリー家支持派の軍隊の前に大敗を喫し、イブン・ズィヤードはほとんどの配下の指揮官とともに戦死した。この決定的な敗北とイブン・ズィヤードの死はイラクに対するアブドゥルマリクの野心にとって大きな後退を意味した。アブドゥルマリクはその後の5年間イラクにおけるさらなる大規模な軍事活動を控えたが、その間にムスアブ・ブン・アッ=ズバイルがムフタールをその支持者とともに倒して殺害し、イラクの唯一の支配者となった。 アブドゥルマリクはシリアの支配を強化することに焦点を移した。ハーズィルの戦いでイブン・ズィヤード配下のカイス族の将軍であったウマイル・ブン・アル=フバーブ・アッ=スラミー(英語版)がズファル・ブン・アル=ハーリスの反乱に加わるために戦闘中に配下の部隊ととも離脱するという出来事に見られるように、イラクに対するアブドゥルマリクの努力はカイス族とヤマン族の分裂の影響によって傷つけられていた。この出来事に続くジャズィーラの大規模なキリスト教徒の部族であるタグリブ族(英語版)に対するウマイルの軍事行動は相次ぐ報復攻撃の連鎖を引き起こし、アラブ部族の間の対立をさらに深めることになった。それまで中立的であったタグリブ族はヤマン族とウマイヤ朝の下に加わった。そしてタグリブ族は689年にウマイルを殺害し、その首をアブドゥルマリクの下へ送った。
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