イラクと東部諸州の統合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/11 02:08 UTC 版)
「アブドゥルマリク」の記事における「イラクと東部諸州の統合」の解説
モースル ラッカ バスラ ワースィト クーファ ニシビス アイン・アル=ワルダ エデッサ ハマダーン ニハーヴァンド カルキースィヤー ティクリート アンバール アーナ ヒート アル=マダーイン ジバール イラク ジャズィーラ アブドゥルマリクの治世におけるイラク(ティクリート以南のメソポタミア地方)とジャズィーラの主要都市の位置を示した地図。 内乱における勝利にもかかわらず、630年代にイスラーム教徒が征服した時点から政治的に混乱していたイラクの支配と統治はアブドゥルマリクにとって大きな難題であり続けた。アブドゥルマリクはシリア軍を撤退させ、ハワーリジュ派の脅威からバスラを防衛する役割をイラクの人々に委ねていた。東洋学者のハミルトン・ギブによれば、ほとんどのイラクの人々は「苦難と損失以外ほとんど何ももたらさなかった」ハワーリジュ派との戦いに「疲れ切っていた」。特にクーファの出身者は出身地における豊かで快適な生活に慣れてしまっており、家族から離れて長期の軍事行動の任務に就くことに抵抗を感じていた。そしてこのような状況はそれまでのイラクの統治者が常に抱えていた問題でもあった。当初、カリフは弟のビシュル(英語版)をクーファの総督に任命し、もう一人の近親者のハーリド(英語版)をビシュルの管轄下に置かれるまでの間バスラの総督に据えた。両者とも総督としての役割を全うするには至らなかったが、最終的にイラクの人々は692年から693年の間にヤマーマでハワーリジュ派の一派であるナジュダ派(英語版)を倒した。ペルシアにおけるもう一つのハワーリジュ派の一派であるアズラク派(英語版)はさらに手強い存在であり、イラクの軍隊はビシュルが死去した後の694年にラムホルモズ(英語版)でアズラク派の軍隊に敗れて敗走した。 結局、アブドゥルマリクの一族によるイラク統治の試みは失敗に終わり、アブドゥルマリクは694年にアル=ハッジャージュ・ブン・ユースフをイラク総督の地位に据えた。クーファとバスラはハッジャージュの下で一つの地方に統合され、ハッジャージュは統治開始当初から効果的にイラクを統治することへの強い意志を示した。そしてアズラク派に対しては以前にズバイル家に仕え、ハワーリジュ派との長い戦いの経験を持っていたアル=ムハッラブ・ブン・アビー・スフラ・アル=アズディー(英語版)を援護し、最終的にムハッラブは697年にアズラク派を打ち倒した。一方で同じ頃にはイラクの中心部でシャビーブ・ブン・ヤズィード・アッ=シャイバーニー(英語版)の率いるハワーリジュ派の反乱が勃発し、反乱軍はアル=マダーイン(英語版)を占領してクーファを包囲した。ハワーリジュ派に立ち向かうにあたって戦争で疲弊したイラクの人々の消極さや能力の欠如といった状況に直面したハッジャージュは、アブドゥルマリクからスフヤーン・ブン・アル=アブラド・アル=カルビー(英語版)が率いるシリアからの援軍を得ることで対処しようとした。より統制のとれた軍隊であったシリア軍は697年の初頭に反乱軍によるクーファへの攻撃を撃退し、シャビーブを殺害した。最終的にハワーリジュ派の反乱は698年までに鎮圧された。アブドゥルマリクはイラクの下にスィスターン(英語版)とホラーサーンを統合し、その結果ハッジャージュはイスラーム国家の東半分を占める広大な地域の責任を担うことになった。ハッジャージュはムハッラブをホラーサーンの総督代理に任命し、ムハッラブは702年に死去するまでその地位にあった。そしてムハッラブの死後は息子のヤズィード(英語版)が後を継いだ。ムハッラブは任期中にイスラーム教徒による中央アジアの征服活動(英語版)を再開したが、アブドゥルマリクの治世にはこの軍事活動による領土の獲得はほとんどなかった。 ハッジャージュはイラクの総督に着任するとすぐにハワーリジュ派との戦争を遂行する努力に加わらないあらゆるイラク人を死刑にすると脅した。さらに支出を削減するための取り組みの一つとして、イラク人の俸給(アター)を地域内で同等の立場にあったシリア人の俸給よりも低くした。歴史家のヒュー・ナイジェル・ケネディ(英語版)は、ハッジャージュはこの措置によって、「まるでイラクの人々を反乱に駆り立て、破壊するための口実を探しているかのようであった」と述べている。実際にムカーティラ(イラクの守備隊を構成していたアラブ人の部族勢力)との対立は、699年にハッジャージュがアブドゥッラフマーン・ブン・ムハンマド・ブン・アル=アシュアス(英語版)(以下、イブン・アル=アシュアス)にザーブリスターン(英語版)への遠征の指揮を命じたときから顕在化し始めた。イブン・アル=アシュアスとその指揮官たちは裕福な名家の出身であったためにハッジャージュの度重なる叱責や要求、さらには遠征の困難さに苛立ちを募らせていた。結果としてイブン・アル=アシュアスとその軍隊はスィスターンで反乱を起こし、701年にシューシュタルでハッジャージュの支援者を破るとその直後にクーファに入った。 ハッジャージュはバスラで自分の出身部族であるサキーフ族(英語版)の親族やシリア人の支援者たちとともに抵抗したが、イブン・アル=アシュアスの下で統一されたイラク軍の前線に対して反撃するには兵力が不足していた。事態を憂慮したアブドゥルマリクはイラク人にシリア人と同等とする賃上げとハッジャージュの罷免を提案した。これに対してイブン・アル=アシュアスの支持者たちがこの提案の受け入れを拒んだことでイブン・アル=アシュアスも提案を拒否した。その後、同年4月に起こったダイル・アル=ジャマージムの戦い(英語版)でハッジャージュがイブン・アル=アシュアスの軍隊を完全に打ち破り、ハッジャージュは状況の主導権を握った。イラクの人々の多くは武装解除を条件に恩赦を与えると約束されたことで反乱側から離脱したが、イブン・アル=アシュアスとその中核となっていた支持者たちはザーブリスターンへ逃れた。しかし、イブン・アル=アシュアスの反乱勢力は702年に散り散りとなって瓦解した。 この反乱の鎮圧は軍事力としてのイラクのムカーティラの終焉とシリア軍によるイラク支配の始まりを告げるものになった。イラク内部の分裂に加えてアブドゥルマリクとハッジャージュが規律の高いシリア軍を活用したことで、イラクの人々が地域内で再び権力を取り戻そうとする試みは無力化された。さらなる反乱の防止を固く決意したハッジャージュは、イラク人の駐屯地として長い歴史のあるクーファとバスラの間に位置するワースィトにシリア軍の常設の駐屯地を築き、地域内の管理をより徹底させた。それ以来政治的な権力はイラクの支配者層となったシリア軍が握り、一方でイラクのアラブ人の有力者層や宗教学者たち、そしてマワーリーは事実上のその臣下となった。さらに農業の盛んなサワード(英語版)(イラク南部)の土地からの税の余剰分は、それまでのようにイラクのムカーティラに対してではなくシリアの軍隊への支払いのためにダマスクスのアブドゥルマリクの国庫へ送られるようになった。この変化はイスラーム国家の統治をより強固なものにするためのカリフによる広範な軍事活動を反映したものであった。
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