イラクとケルマーンにおけるセルジューク朝の滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 08:40 UTC 版)
「セルジューク朝」の記事における「イラクとケルマーンにおけるセルジューク朝の滅亡」の解説
サンジャルの死後、ホラーサーンは将軍たちの内紛の末、ホラズム・シャー朝の手に渡った。 一方、大セルジューク朝消滅後も、直接の後継として、サンジャルの先代の大スルタン、ムハンマド・タパルの子孫でイラン西部(イラーク・アジャミー)とイラク(イラーク・アラビー)を支配したイラク・セルジューク朝が存続したが、一族の中で互いに内紛を繰り返す中で、アタベクたちが実権を掌握し、支配は有名無実化していった。1194年、ホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・テキシュはイランに進出し、イラク・セルジューク朝最後のスルタン・トゥグリル3世を敗死させた。ケルマーン・セルジューク朝は、既に1186年にトゥルクマーンによってケルマーンを奪われ滅亡しており、トゥグリル3世の死によりイラン・イラク・ホラーサーンにおけるセルジューク朝は完全に滅亡した。 ルーム・セルジューク朝は他のセルジューク朝諸政権が内紛から衰退に向かう12世紀後半にただひとつ最盛期を迎えたが、1243年にモンゴルの支配下に置かれた。ルーム・セルジューク朝はその後も名目の上では存続し、セルジューク朝の地方政権のうちでは最も長く続いたが、1308年に最後のスルタンが没して消滅した。
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