イラクの奇襲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 15:08 UTC 版)
1980年9月22日未明、イラク軍が全面攻撃、イランの10の空軍基地を爆撃、イラン軍が迎撃するという形で戦争は始まった。ただし、9月に入った時点で国境地帯での散発的な戦闘や空中戦が起こっていた。この攻撃は、1975年にアルジェリアの仲介で、イランとイラクの国境を画定するために結ばれたアルジェ協定の一方的破棄であった。この急襲で基地施設の破壊は成功したが、肝心な戦闘機の破壊は失敗。翌日、イラクは両国の644kmに渡る国境線を越え三方向から地上軍を侵攻。南部戦線ではフーゼスターン州に橋頭堡を確保しシャトル・アラブ川(アルヴァンド川)流域のアーバーダーンやホラムシャハルを包囲する目的だった。中部戦線ではイーラーム州のザグロス山脈の麓を制圧した。これはイランの反撃に備えるためで、北部戦線ではスレイマニヤの制圧を目指した。これはイランの反攻でキルクークの石油施設が破壊されるのを防ぐ狙いであった。 準備の面で勝るイラク軍は、革命で混乱したイラン軍の指揮系統などの弱点をついた。イランは正規軍であるイラン・イスラム共和国軍と、正規軍の反乱に備えて創設されたイスラム革命防衛隊が共同して作戦を実施することができなかった。それでも、破壊を免れたイラン空軍機は制空権を確保してイラクの石油施設や首都バグダッドなどを爆撃したほか、イラン海軍はバスラを攻撃した。しかし、イラク軍はホラムシャハルを占領、アフヴァーズを目指す勢いであり、11月にはイラン西部国境地帯の一部を占領した(詳細はイラン侵攻 (イラン・イラク戦争)を参照)。 イランの軍備は長らく親米政権であったため、ほとんどが米国製であった。これらを扱う技術者もアメリカ人であったが、革命の際に全員が国外退去となり、兵器の整備や部品調達が難しくなっていた。 イランのイスラム革命に介入しようと、当時懸案のイランアメリカ大使館人質事件で対立関係にあったアメリカ合衆国や欧州、ソ連、中華人民共和国などはイラクを積極支援した。当時サウジアラビアに次ぐ世界第2の石油輸出国だったイラクは戦争を先進国の利害に直接結びつけ、石油危機に怯える石油消費国を戦争に巻き込む戦術をとっていた。また、革命後のイラン国内では反米運動が盛りあがり、イランのイスラム革命精神の拡大を恐れたことも関係する。 特にソ連、フランス、中華人民共和国は1980年から1988年までイラクの武器輸入の90%も占め、後の石油食料交換プログラムでもソ連の後継国ロシア、フランス、中華人民共和国の3カ国はイラクから最もリベートを受けている。アラブ諸国はスンニ派や世俗的な王政・独裁制が多い為、イランの十二イマーム派イスラム革命の輸出を恐れイラクを支援し、クウェートはペルシア湾対岸にイランを臨むことから、積極的にイラクを支援、資金援助のほか、軍港を提供するなどした。国内にイスラム教徒を抱えていたソ連はイスラム革命後にイランの隣国アフガニスタンに侵攻しているが、これはアフガニスタンの親ソ政権の転覆を恐れた為とされている。イラクを全面支援してイランの鼻先を通るクウェートのタンカーにはソ連の護衛が付いており、イランは手出しができなかった。 東西諸国共に対イラン制裁処置を発動、物資、兵器の補給などが滞り、また革命の混乱も重なって人海戦術などで応じるしかなかったため、イラン側は大量の犠牲者を出す。兵力は1000人規模で戦死者が共同墓地に埋葬されている。しかし、全般的には劣勢で、時にはイラン兵の死体が石垣のように積み重なることもあった。完全に孤立したイランはイラクへの降伏を検討しなければならなくなっていた。
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