アラブにおける世俗主義的な反シオニズム
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「反シオニズム」の記事における「アラブにおける世俗主義的な反シオニズム」の解説
アラブ世界における世俗主義的な反シオニズムは、イスラエルの存在を認める立場への反対や、同国の土地開発や領土拡大運動などに反対する立場が主なものである。ここでは、イスラム主義を背景とする宗教的反シオニズム以外のものを取り上げることとするが、そもそもアラブ世界において宗教的反シオニズムと世俗主義的反シオニズムの区別はしばしば曖昧となることには注意が必要である。 ユダヤ人帰還運動としてのシオニズムは長い歴史を持っており、元々はユダヤ人と共に平和な世俗国家を築こうとするアラブ人も多かった。ユダヤ人はヘブライ語を口語として復活させ、局所的には宗教的な差異を原因とした衝突がありながらも、安定した社会を築き上げていた。しかし、当初は対外貿易と人口増への対応を巡る農業政策におけるユダヤ人とアラブ人の価値観の違い(ユダヤ人の多くが銀行業などの非第一次産業の職業に就いていた一方、農業に従事していたのはほとんどがアラブ人であった)という経済問題が大部分を占めていたはずの両者の対立は、オスマン帝国滅亡後のアラブ民族主義の高まり、後にイスラエルの首相となるベギン率いるイルグン、シャミル率いるレヒ等のユダヤ人テロ組織のテロの激化等の要因が絡まって激化していき、第二次世界大戦が終了した後の1947年の時点では既に、ヨルダンのフセイン国王、アミール・ファイサル・フサイニー(1933年アラブ過激派により暗殺)、ファウズィー・ダルウィーシュ・フサイニー(1946年暗殺)、マルティン・ブーバーらの推進していたイフード運動(民族性・宗教性を表に出さない、平和統合国家案)は非現実的な様相を呈するに至った。その後、トランスヨルダンを委任統治していたイギリスから国連へとパレスチナ問題が移管され、パレスチナ分割によるイスラエル国の成立、二度に亘る中東戦争を経て、アラブ世界における反イスラエル感情は大きな高まりを見せた。アラブ諸国の反帝国主義者は、ある国民が特定の土地を自力で支配するには先ず、自国の人間を移民として送り込むべきとの見解を強調し、対シオニズム闘争はパレスチナ人自身が革命を起こし、ユダヤ人入植地のユダヤ人を排除することによって成功する、とした。また1960年代のナセル時代の汎アラブ主義者は、パレスチナをアラブ世界の一部と捉え、アラブ諸国が団結してイスラエルに軍事介入すべきと説いたのは、その例である。 またこのような国家政治的イデオロギーを背景とした反イスラエル=反シオニズムの潮流以外に、実際に居住地から追放されたパレスチナ難民の人々によるイスラエルによる入植活動に対する抵抗運動が組織された。パレスチナ難民の発生原因については、当時は、ユダヤ人軍事組織によって追放されたというパレスチナ側の主張とパレスチナ人が自発的に立ち去ったというイスラエル側の主張があったが、現在ではイスラエルの政府資料や米国の諜報資料が公開され、イスラエル側の主張が虚構であり、大多数のパレスチナ難民はユダヤ人によって構成された軍事組織による大量虐殺(イスラエルの歴史学者のイラン・パペによれば、総計2千人〜3千人が犠牲になった)および銃器を用いた脅迫などによって直接居住地から追放されるか、軍事的迫害を恐れて自ら難民となったかのいずれかであった。
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