パレスチナ分割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 06:09 UTC 版)
「パレスチナ分割決議」、「パレスチナ内戦」、および「イスラエル独立宣言」も参照 1936年4月に起きたパレスチナ独立戦争(アラブ暴動)で、イギリス側はアラブ人とユダヤ人の共存は困難であるとして、ピール委員会(英語版)は善後策の調査を始めた。ピール委員会は、暴動の原因をアラブ人・ユダヤ人相互の民族主義に求めたが、アラブ人の「後進性」も強調された。 1937年7月7日、ピール委員会は、パレスチナをアラブ国家と小さなユダヤ国家(15%程度)、国際地域に分割する提案を行った。また、希土戦争 (1919年-1922年)後に行われたギリシャとトルコの住民交換を先例に、少数民族の交換(実質的な強制移住)も言及された。これが、公のものでは最初のパレスチナ分割案である。 アラブ人は全面的に拒否し、アラブ高等委員会(英語版)は「ユダヤ人とその他の少数民族の正当な権利をすべて保護し、イギリスの合理的な利益を守る」前提の上で、パレスチナ単一国家の独立を要求した。ユダヤ人国家として、肥沃な土地が割り当てられたことも拒否の理由だった。また、全てのユダヤ人の新規移民の停止を要求した。ユダヤ人もまた、シオニスト大会で分割案拒否を決議した。しかし全面否定では無く、ユダヤ人国家の拡大や、あわよくばパレスチナ全域の占有を目的とした議論の継続がされた。また、ピール委員会案では、ユダヤ人国家にアラブ人225000人、アラブ人国家にユダヤ人1250人が少数民族として残ることが想定された。このため、ユダヤ人の中では、アラブ人の「移送」もまた議論されるようになった。 第二次世界大戦後、後にイスラエル首相となるメナヘム・ベギン率いるイルグン、イツハク・シャミル率いるレヒ等のユダヤ人テロ組織のテロと、アメリカの圧力に屈したイギリスは遂に国際連合にこの問題の仲介を委ねた。 ユダヤ人の人口はパレスチナ人口の3分の1に過ぎなかったが、1947年11月29日の国連総会では、パレスチナの56.5%の土地をユダヤ国家、43.5%の土地をアラブ国家とし、エルサレムを国際管理とするという国連決議181号パレスチナ分割決議が、賛成33・反対13・棄権10で可決された。ピール案よりユダヤ人に有利になったこの決議は、国内の選挙において、ユダヤ人の投票獲得を目当てにしたアメリカのハリー・S・トルーマン大統領の強烈な圧力によって成立している。ユダヤ人を自国から追い出したいキリスト教徒が主なアメリカ、ソ連、フランス、ブラジルなどが賛成し、アラブ諸国が反対した。(イギリスはこれ以上反感を買うことを恐れて棄権) 1948年2月、アラブ連盟加盟国は、カイロでイスラエル建国の阻止を決議した。アラブ人によるテロが激化する中、1948年3月にアメリカは国連で分割案の支持を撤回し、パレスチナの国連信託統治の提案をした。1948年4月9日、ユダヤ人テロ組織、イルグン、レヒの混成軍が、エルサレム近郊のデイル・ヤシーン村で村民の大量虐殺を行い、その話が広まって、恐怖に駆られたパレスチナアラブ人の大量脱出が始まった。1948年5月、イギリスのパレスチナ委任統治が終了し、国連決議181号(通称パレスチナ分割決議)を根拠に、1948年5月14日に独立宣言しイスラエルが誕生した。同時にアラブ連盟5カ国(エジプト・トランスヨルダン・シリア・レバノン・イラク)の大部隊が独立阻止を目指してパレスチナに進攻し、第一次中東戦争(イスラエル独立戦争、パレスチナ戦争)が起こった。
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