パレスチナへの移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/18 01:29 UTC 版)
「エリエゼル・ベン・イェフダー」の記事における「パレスチナへの移住」の解説
ベン・イェフダーはヨナス家の幼馴染デボラと結婚、エルサレム旧市街に粗末な部屋を借りてそこに居を構えた。ベン・イェフダーは、パレスチナで最初のヘブライ語新聞『ハヴァツェレット』(חבצלת ,Chavatzelet, 水仙の一種)で記事を書く仕事を得たが、そこでも彼は「ベン・イェフダー」の署名を使った。1884年、ヘブライ語に対する情熱から、ベン・イェフダーは自らヘブライ語新聞『ハツヴィ』(הצבי ,HaTzvi, カモシカの意)を発行し、自ら編集も行った。 ベン・イェフダーは、イスラエルの地にヘブライ語を日常言語に生まれ変わらせようと、疲れを見せることなく取り組んだ。ベン・イェフダーは、彼の異常なまでの情熱に対して文句を言う知り合いに対しても、「ヘブライ語を話しなさい、そうすれば不平も無くなるだろう」と述べた。1882年に生まれた彼の息子ベン・ツィオン(後にベン・アヴィ・イタマルと改名)は、家庭でヘブライ語を聞いて育ち、「ヘブライ語を母語とする最初の子供」となった。さらにベン・イェフダーは、「ハビーヴ小学校」(イスラエルで最初に作られた、ヘブライ語のみで授業を行う学校)のために教科書を執筆し、教壇にも立って子供を教えた。1890年、「ヘブライ語委員会」(後に「ヘブライ言語アカデミー」 Academy of the Hebrew Language に改編)が設立され、ベン・イェフダーはその代表に就任した。 1891年、妻デボラが結核により死去すると、デボラの妹で、新聞記者で作家のヘムダが、ベン・イェフダーの幼い子供たちの養育を手伝うようになった。1892年に2人は結婚し、その後ベン・イェフダーの活動は、彼女から多くの支援を受けることとなった。 ベン・イェフダーの活動は、シオニズム運動以前からパレスチナに居住していたユダヤ人達の怒りを買った。彼らは当時パレスチナを支配していたオスマン帝国の当局に対し、ベン・イェフダーは反乱を企てていると申し立てた。ベン・イェフダーは投獄されるが、彼に対してより穏健であった世論の後押しにより、短期間で釈放された。しかし、ベン・イェフダーとその新しい考え方に対する憎悪は弱まらず、シオニズム運動を代表するような人々までが、彼に対して抗議行動を行った。 1913年、パレスチナでのユダヤ人の教育制度における、新しく生まれ変わったヘブライ語の地位をめぐる論争、「言語戦争」が発生し、ベン・イェフダーもそれに巻き込まれた。この論争は、工科大学の設立資金を出資していたドイツのユダヤ人団体が、そこでの教育言語をドイツ語とするように求めたことに端を発し、パレスチナの他の教育施設にまで広がった。1914年2月、論争はヘブライ語支持者達の勝利に終わった。 ヘブライ語は次第にパレスチナのユダヤ人の中で主要な言語へと成長し、1919年、オスマン帝国に替わりパレスチナを治めていたイギリスの委任統治当局は、ヘブライ語をパレスチナにおける公用語の一つと宣言するに至った。 ベン・イェフダーは1922年12月16日に結核により死去、エルサレムのオリーブ山の頂に埋葬された。
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