ナチスとの接触
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1940年、レヒは第二次世界大戦でナチス・ドイツ側に立って干渉することを提案する。それはドイツがイギリスをパレスチナから追放する見返りに、ヨーロッパのユダヤ人の『移住』を手助けするというものだった。1940年の末、レヒの代表者Naftali Lubenchikはドイツの外交官ヴェルナー・オット・フォン・ヘンティヒ(Werner Otto von Hentig)に会うため、ベイルートを訪れ、ヘンティヒにレヒはまだその実力を発揮しておらず、その気になれば反英運動の全範囲を組織化することも出来ると語った。 ドイツの第一の目標がイギリスの駆逐であるという仮定に基づき、次のような協力を申し出た。 レヒ側からは、活動可能な熟練者と一部では武器を有するイルグンの支部がある、中東や東欧での妨害活動、スパイ活動、諜報活動と幅広い軍事行動の完全協力。ドイツ側からは以下の宣言と行動が要求された。(1) パレスチナ(エレツ・イスラエル)におけるユダヤ独立国家の完全な承認。(2) ヨーロッパからパレスチナへの移住をする意思のある、もしくは政府からの禁則命令を受けた、全てのユダヤ人に移住を許可し、数の制限も無くす。 このため、マダガスカルのような遠くの国にユダヤ人を移住させるナチスの計画(マダガスカル計画)は、撤回の表明を余儀なくされた。 1941年1月11日、後にアンカラ文書と呼ばれるレヒからの書簡が海軍中将ラルフ・フォン・デア・マルヴィッツ(Vice Admiral Ralf von der Marwitz)を通じてドイツ海軍の駐アンカラ大使に送られた。書かれていた申し出は「戦争では積極的にドイツ側に与する」ことを「ドイツ国(German Reich)との協定に基づく、全体主義思想を基盤とする過去からのユダヤ国家の建設」をドイツが手助けする見返りとして行うという内容だった。書簡にはアヴラハム・シュテルンとイツハク・シャミルのサインがしたためられていた。提案がどのようにアンカラのドイツ海軍の大使に伝わったのかについては3つの可能性が考えられる。まず一つはヘンティヒがドイツへ向かう途中アンカラで遅れ、彼の口頭での訳解がマルヴィッツに伝えられ、マルヴィッツの言葉で書簡が書かれたとするもの。二番目はフランス情報部司令のコロンバニが他のヴィシー政権の同僚との個人的な対立によって捏造したとするもので、マルヴィッツの書簡の「コロンバニは彼のフランスへの召還がコンティとピエトロン大臣の共謀の結果だと思っている」という文から知られるようになった。そして、三つめは、提案の不履行を望んだコロンバニが、1938年から1939年にかけて、レバノンでアミーン・アル=フサイニー(エルサレムのムフティ)に協力を仰いだとするもの。彼は1939年、コロンバニをシリアからイラク国境に彼の車で送った人物でもあった。 いずれにしても、マルヴィッツが機密文書として処理されたその提案をドイツの大使がいるトルコに届け、1941年1月21日にそれはベルリンへ送られ、返事は返ってこなかった。ヘンティヒは後に、ユダヤ人の国を作るのは大切なことだと信じていたと語ったという。
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