マダガスカル計画
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マダガスカル計画(マダガスカルけいかく、独: Madagaskarplan、英: Madagascar Plan)とは、ナチス政権下のドイツにより立案された、ヨーロッパのユダヤ人をマダガスカル島へ移送する計画である[1]。
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発端
ヨーロッパのユダヤ人がマダガスカル島に脱出するという考えはナチス独自のものではない。19世紀ドイツの東洋学者で反ユダヤ主義者でもあったパウル・ド・ラガルドにより1885年に提唱されたものが初であり[2]、1920年代にはヘンリー・ハミルトン・ビーミッシュ、アーノルド・リースその他によって取り上げられている[1]。
1904年から1905年にかけて、イギリス政府はシオニストグループに対し、アフリカ中央部のウガンダ(今日のケニアを含む)へのユダヤ人の移住を打診している。この英領ウガンダ計画はシオニストの間で真剣に議論されたものの、結局実行に移されることはなかった。イズレイル・ザングウィルらは「約束の地」での国家建設にこだわるシオニストから袂を分かち、現実的にユダヤ人が定住でき、かつ国家、少なくとも自治地域の建設ができる地域を世界中の候補地から探すべきだとする領土主義を提唱することになる。
ナチス・ドイツにおける計画の具体化
ナチス政権下のドイツの指導者たちもやがてこのアイディアに注目するようになり、1938年、アドルフ・ヒトラーにより計画は正式に裁可された[2]。1940年5月、ハインリヒ・ヒムラーは彼の「東方の異人種の取り扱いについての意見」に基づき、次のように宣言した。「全てのユダヤ人をアフリカやその他植民地に大規模に移住させるという可能性を以ってしてユダヤ人の存在証明は完全に消え去るだろうと私は望んでいる。」
立案開始
マダガスカル計画についての議論は、1938年からユリウス・シュトライヒャー、ヘルマン・ゲーリング、アルフレート・ローゼンベルク、ヨアヒム・フォン・リッベントロップなどをはじめとする有名なナチの指導者、イデオローグらにより議題に挙げられていたが[2]、具体化に動き始めたのは1940年になってからである。同年5月初旬よりドイツはフランスへの全面侵攻を開始し、6月25日にはこれを降伏に追い込んだ。ナチス党員でありドイツ外務省の外交官であったフランツ・ラーデマッハーはフランスとの講和条約の条項の一つとして、フランスがヨーロッパからのユダヤ人の移住先としてマダガスカルに利用可能な居留地を建設することを提案した[3]。
ラーデマッハーによる計画
先だってラーデマッハーはドイツ外務省ユダヤ人担当課("Referat D III der Abteilung Deutschland"=ドイツ局第三課)の長に任じられており、6月3日に彼が外務省の上司マルティン・ルターへ作成した覚書には「望ましい解決策は全てのユダヤ人をヨーロッパから追い出すことだ」とまで断言していた。ラーデマッハーは、マダガスカルへ移送されるユダヤ人からは市民権を奪い、ヴィシー・フランス統治下のマダガスカル委任統治領の住民になるべきだと考えていた。このことによって、パレスチナにおけるユダヤ国家の建設を防げると考えていた。ラーデマッハーはさらに、ユダヤ人がマダガスカルへ移送されたならば、彼らは「アメリカにおけるユダヤ人の将来の良き振る舞い」を保証するための人質として利用できるだろう[3]と考えていた。
6月3日の覚書を受け取ると、ルターは外務大臣のリッベントロップにこの議題を提案した。6月18日、リッベントロップに加えヒトラー自身がベニート・ムッソリーニにこの計画を語った。6月20日、ヒトラーは海軍総司令官のエーリヒ・レーダーにマダガスカル計画を直接伝えた[2]。
ラーデマッハーはこの計画への費用を捻出するため、ヨーロッパのユダヤ人の全資産を最終的に整理するであろう銀行設立まで想定していた。ユダヤ人はマダガスカルとナチスが許可したヨーロッパの特定地域を除き金融取引を許可されず、その仲介に当たるのがこの銀行とされた。四カ年計画を推進するゲーリングのオフィスはマダガスカル計画の経済管理を指導すると考えられた。
加えて、ラーデマッハーは他の政府機関の役割を見越していた。リッベントロップの外務省はマダガスカルの支配権をドイツに委譲する結果となるようフランスとの講和条約を交渉するよう期待された。また外務省はヨーロッパのユダヤ人を取り扱うその他の条約を作成する役割を果たす。ヨーゼフ・ゲッベルス率いる宣伝省は本計画の情報部門を担当し、本政策に関連する国内外の情報をコントロールする。総統官房のヴィクトル・ブラックは移送を指揮する。SSはヨーロッパからのユダヤ人の放逐を続行し、最終的にはマダガスカル島を警察国家として統治する。第三帝国はバトル・オブ・ブリテンに勝利し、アシカ作戦の成功でグレートブリテン島へ侵攻しこれを征服する、イギリス艦隊はドイツに接収されマダガスカルへのユダヤ人の移送に利用される。計画はこれらのことが実現するのを前提で立案されていた。
親衛隊による介入
ドイツ占領地域からユダヤ人の排除を指揮監督するため、1939年にゲーリングによってユダヤ人移住中央本部の本部長に任じられた国家保安本部長官のラインハルト・ハイドリヒは、マダガスカル計画が動き始めたことを知るや、リッベントロップにこの計画は親衛隊の管轄であると熱心に主張した[2]。こうして親衛隊国家保安本部でユダヤ人の追放政策を担当していたアドルフ・アイヒマンも計画に参加するようになった。8月15日、アイヒマンはReichssicherheitshauptamt: Madagaskar Projekt(国家保安本部: マダガスカル計画)と名付けられた草案を公開した。この草案では、1年に100万人のユダヤ人を再定住させそれを4年以上続けることが要求された。同時にヨーロッパ中にいかなるユダヤ人も抑留しておくという考えは捨て去られ、親衛隊が計画の全面的なコントロールにあたるとされた。例えばドイツ以外の国はドイツがマダガスカルにおいて、ユダヤ人住民の「自治権」を与えるものとの見方を望んでいたが、アイヒマンは島の統治のために創設される全てのユダヤ人団体をSSの管理監督下に置くことを草案ではっきりと述べていた。
反響
多くのナチ高官、とりわけハンス・フランクなどポーランド総督府(ポーランド占領地のうちドイツ本国に組み込まれなかった残部を統治する)当局は、収容能力に限界があるゲットーにこれ以上ユダヤ人を追放するよりもはるかに望ましいとして、400万人のユダヤ人を強制的にマダガスカルに再定住させる見方を持っていた。7月10日の時点でポーランド各地からゲットーへの全ての移送、ワルシャワ・ゲットーの建設は一時中断させられていた。いずれも不必要であると思われたからである[2]。
最終的な破棄
1940年8月にラーデマッハーはリッベントロップに対し、本計画を強固なものとするための専門家集団の編成を開始するため外務省にて会合を開くよう嘆願しているが、リッベントロップはこれを無視した。同じようにアイヒマンの草案もハイドリヒの承認を得られず放置された。やがてワルシャワ・ゲットーの工事も再開され10月に完成し開設された。ドイツ占領地域からポーランド総督府へのユダヤ人の追放も1940年の秋後半から1941年の春にかけて再び続けられた。
バトル・オブ・ブリテンの間のイギリスの抵抗と同年9月までにイギリスに迅速に勝利することに失敗したことで、ドイツの計画は完全に失敗に終わった。イギリスの海上輸送力をユダヤ人排除に利用するというドイツの思い通りにはならなかった。ドイツの海軍力では到底制海権を握ることは出来ず、そして戦争はいつまでも続いていた。「ゲットーを超える存在」としてマダガスカルを言及することはその後数ヶ月間、時折ある程度だったが、とうとう12月初旬に本計画は完全に破棄された。また、1941年6月からの独ソ戦において、同年中にはソ連軍の抵抗により東方への進出も止まり、ユダヤ人をポーランドやロシア占領地域からさらに東方へ追放することも事実上不可能となった。それらの結果が、領内ユダヤ人の絶滅を目指すことによって最終解決を図る、1942年1月のヴァンゼー会議につながっていく。1942年11月にはイギリス軍と自由フランス軍がヴィシー・フランス軍からマダガスカルを奪取したことで、この計画の議論は事実上すべて終焉を迎えた。
なお万が一この計画が実行に移された場合、到底受け入れ不可能な数のユダヤ人を押し付けられたマダガスカル島の現地社会には破滅的な経済破綻、物資不足、飢餓が横行したであろうと予想されるが、ナチス・ドイツでの計画立案から放棄に至る過程にあたって、この点が考慮された形跡は全く存在しない。
出典
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参考文献
- Ainsztein, R. Jewish Resistance in Nazi-Occupied Eastern Europe, Elek Books Limited, London, 1974.
- Brechtken, Magnus: „Madagaskar für die Juden“. Antisemitische Idee und politische Praxis 1885-1945, 2. Auflage, Wissenschaftsverlag, Oldenbourg, Germany, 1998 ISBN 348656384X, 9783486563849
- Browning, Christopher R.: The Origins of the Final Solution, University of Nebraska Press, Lincoln, and Yad Vashem, Jerusalem, 2004 ISBN 0-8032-1327-1
- アリー,ゲッツ:『最終解決――民族移動とヨーロッパ・ユダヤ人の殺害』山本尤・三島憲一訳,法政大学出版局 (叢書ウニベルシタス622),1998年 (ドイツ語版初版1995年).
脚注
- ^ a b Browning, Christopher R. The Origins of the Final Solution. 2004. Page 81
- ^ a b c d e f Kershaw, Ian. Hitler: 1936-1945: Nemesis. New York: Norton, 2000. pp.320-322
- ^ a b “The Madagascar Plan - Rademacher, "The Jewish Question in the Peace Treaty," memo of 3 July 1940.”. www.shoaheducation.com. 2009年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年7月5日閲覧。
関連項目
- ホロコースト
- ナチス・ドイツ
- ユダヤ人問題の最終的解決
- ユダヤ人国家のための提案
- ハーヴァラ協定(移送協定)
- 英領ウガンダ計画
- 河豚計画
- 機能派・意図派論争
- アイアンクラッド作戦
外部リンク
- The Madagascar Plan - ノッティンガム大学 "Words of the World"プロジェクト(講師はMagnus Brechtken)
- The Madagascar Plan
- Rademacher's Madagascar Plan
- Shofar FTP Archive File: places/madagascar/madagascar-00 - The Nizkor Project
- Die Judenfrage im Friedensvertrage ― ラーデマッハーの意見書「講和条約におけるユダヤ人問題」(1940年7月3日付)のドイツ語原文。Skriptのタブより参照可。
マダガスカル計画
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「マダガスカル計画」も参照 1940年5月頃には外務省参事官フランツ・ラーデマッハーが西方ユダヤ人をマダガスカル島に送ることを提案、この案は同年6月18日のヒトラーとムッソリーニとの会談で「マダガスカルにイスラエル国家を作ることも可能である」ということを述べているように、ヒトラーを含む上層部でも検討された。国家保安本部ゲシュタポでユダヤ人問題を担当するB4課長を務めたアドルフ・アイヒマン親衛隊中佐は戦争終結後に5年をかけて、ドイツ占領地域に住む600万人のユダヤ人をマダガスカルに送る計画に従事していた。 しかし6月24日になって、ハイドリヒは国外移送は不可能で「最終的領域的解決」が必要、という報告した。ラーデマッハーは8月になって計画が正式中止されたという報告を行っているが、少なくとも1941年2月までヒトラーが破棄していなかったとする見解もある。いずれにしても計画の断念後、「ユダヤ人問題」解決策は海外への移住から東方占領地域への移送、さらには移送先での強制労働を通じた絶滅へと進展した。この決定に従って、ユダヤ人の中で生産活動にとって無価値な老人・女子・子供は移送の後に殺害し、労働に耐える者はなるべく過酷な労働環境で軍需産業に従事させ、死亡させるという方針がとられることになった。 ポーランド総督府はこれ以上のユダヤ人受け入れは不可能と苦情を申し出たが、ヒトラーは「(総督領は)巨大なポーランド強制収容所でしかない」と拒絶した。しかし1941年3月15日、ポーランドの親衛隊及び警察指導者フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガーは、これ以上総督領に対するユダヤ人の移送を行わないと伝達し、6月19日にはヒトラーは総督ハンス・フランクに対して「ユダヤ人は近いうちに総督領からいなくなる」と伝えている。これは3日後に勃発する独ソ戦の勝利によって、東方にユダヤ人を送る余地ができたということを示すものであった。
※この「マダガスカル計画」の解説は、「ホロコースト」の解説の一部です。
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