マダガスカル統一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 03:50 UTC 版)
「マダガスカルの歴史」の記事における「マダガスカル統一」の解説
「メリナ王国」も参照 マダガスカルは、高原部に居住する東南アジアから移ってきた民族によって主に支配されていた。また沿岸部はアフリカから連れてこられた奴隷やアラブ系の民族が暮らしていた。各民族はそれぞれ独自の王制を引いていたが、マダガスカル統一の動きが現れたのは、18世紀に入ってからとなる。 17世紀初頭、マダガスカル中央高原にはペツィレゥ諸王国、メリナ王国、東南部のアンテムル王国、などが乱立、互いに狭い領域を支配している小国にすぎなかった。同じ頃、サカラバ族が島の西側半分を支配するに至るが19世紀に入ると衰退してしまった。 18世紀末、メリナ民族を統一したアンドゥリアナムプイニメリナ王が現れる。王はサカラバ族を退け、ベツィレゥ王国を征服し、19世紀のメリナ王国によるマダガスカルの広域支配の基盤を築いた。 19世紀初め、アンドゥリアナムプイニメリナ王の息子であるラダマ1世がメリナ王国を引き継ぐ。彼は先進的な考え方の持ち主であり、国民の教育レベルを引き上げてヨーロッパの知識を取り入れなければ、ヨーロッパに植民地化されてしまうという危惧を抱いていた。ラダマ1世は、モーリシャスのイギリス総督であったファーカーの援助を受け、軍隊をイギリス流に訓練した。さらに、奴隷貿易の廃止や学校の設立、アルファベットによるマダガスカル語表記の導入など、近代化=西欧化政策を進めた。しかし1828年、志半ばでラダマ1世は他界。ラダマ1世の第一夫人がラナヴァルナ1世として即位した。彼女は、ヨーロッパ敵視政策に切り替えた。1835年にキリスト教の布教を禁止した。 1861年に、ラナヴァルナI世が死去。その息子がラダマ2世として即位する。ラダマ2世は再びヨーロッパ化を推し進める政策へと変更した。しかしその政策が急であったため、欧化反対派により1863年に暗殺された。 ラダマ2世の後継は、その妃であったラスヘリナが即位。1868年に、ラスヘリナが没すると、従妹がラナヴァルナ2世として即位する。彼女は行政改革に努めるが、メリナ王国は衰退していった。
※この「マダガスカル統一」の解説は、「マダガスカルの歴史」の解説の一部です。
「マダガスカル統一」を含む「マダガスカルの歴史」の記事については、「マダガスカルの歴史」の概要を参照ください。
- マダガスカル統一のページへのリンク