最終的な破棄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/11 16:54 UTC 版)
1940年8月にラーデマッハーはリッベントロップに対し、本計画を強固なものとするための専門家集団の編成を開始するため外務省にて会合を開くよう嘆願しているが、リッベントロップはこれを無視した。同じようにアイヒマンの草案もハイドリヒの承認を得られず放置された。やがてワルシャワ・ゲットーの工事も再開され10月に完成し開設された。ドイツ占領地域からポーランド総督府へのユダヤ人の追放も1940年の秋後半から1941年の春にかけて再び続けられた。 バトル・オブ・ブリテンの間のイギリスの抵抗と同年9月までにイギリスに迅速に勝利することに失敗したことで、ドイツの計画は完全に失敗に終わった。イギリスの艦隊はユダヤ人排除に利用するというドイツの思い通りにはならなかった。そして戦争はいつまでも続いていた。「ゲットーを超える存在」としてマダガスカルを言及することはその後数ヶ月間、時折ある程度だったが、とうとう12月初旬に本計画は完全に破棄された。イギリス軍と自由フランス軍が1942年にヴィシー・フランス軍からマダガスカルを奪取したことでこの計画の議論は事実上すべて終焉を迎えた。 なお万が一この計画が実行に移された場合、到底受け入れ不可能な数のユダヤ人を押し付けられたマダガスカル島の現地社会には破滅的な経済破綻、物資不足、飢餓が横行したであろうと予想されるが、ナチス・ドイツでの計画立案から放棄に至る過程にあたって、この点が考慮された形跡は全く存在しない。
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