最終的結果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/11 20:45 UTC 版)
「FCM1A (戦車)」の記事における「最終的結果」の解説
このようにフランスで重戦車の開発が進む一方で、連合国は1919年の春に再び大規模な攻勢を行うことを計画していた。しかし、現実問題としてフランスの国家経済は戦争で人的にも財政的にも資源的にも疲弊しており、軍部の求めるような規模の戦力の整備は困難な状況になっていた。このようなフランスの状況を鑑み、大攻勢の実施が危ぶまれることを懸念したイギリスは、フランスが重戦車を自前で生産する労力を(形だけであっても)払った場合、アメリカ・イギリス・フランスの三国共同で開発・生産する計画が進行中であるマークVIII型戦車(英語版)700両をフランスに対し供与すると表明した。 これは窮乏しつつあるフランス軍にとってはたいへん有利な提案で、軍は新型戦車を最小の労力で入手すべく、自国の重戦車開発計画を表面上支持すると共に、実際には計画が実行されないように取り計らうことにした。そのため、1918年にはFCM 1Aを発展させたものとして、開発中のFCM 1Bと計画を統合し、車体を拡大、75mm砲装備の主砲塔に加えて後部に機銃装備の小砲塔を追加、駆動装置はガソリンエンジン+電気モーターを動力とした電気式推進機構とした総重量65t超の重戦車の設計案が提示され、「FCM 2C」(Char 2C:シャール2C)の名称が与えられたが、フランス軍にはこの戦車を完成させる意思も生産する意図もなかったため、第1次世界大戦中には生産されないままに終わった。 詳細は「シャール_2C」を参照 このような状況の中、1918年9月に入ると同盟国は急速に崩壊し、同年11月、第一次世界大戦は終結した。全ての重戦車の発注は終戦を理由に打ち切られ、FCM 1シリーズはFCM 1Aの試作車が1両生産されたのみに終わった。なお、FCM 1Aの開発には、試作車の生産費用も含め総額で60万フラン(当時)が費やされた。
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