最終的な運命と目撃証言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 09:42 UTC 版)
「ジョン・ビンガム (第7代ルーカン伯爵)」の記事における「最終的な運命と目撃証言」の解説
彼は子どもたちの教育費が払えるように死亡宣告されたのではありません。ただ長い時間が経ちすぎたということなのです。もし彼の遺体が見つかったならば、私の息子は元ルーカン伯爵になって、死亡税を支払わなくてはなりません。そうしたら子どもたちの教育費なんか私たちには支払えなかったでしょう。あの子たちはほんの4歳、7歳、10歳で、長い時間を歩んでいく必要がありましたから。 第6代ルーカン伯爵未亡人 (Dowager Countess of Lucan) ルーカンの最後の目撃証言として確実なものは、1974年11月8日の午前1時15分頃、マクスウェル=スコットの家を、友人のフォード・コルセアで出て行くものである。これ以降、彼の行方と最終的な運命は謎のままとなっている。捜査に当たった刑事のロイ・ランソン警視正は、当初ルーカンは「高潔な仕事を成し遂げ」、「彼自身の刃にかかったのだ」と述べていた。ジョン・アスピナルは2000年に亡くなる直前、ルーカンはリヴェット殺しの犯人で、彼の遺体は「海峡の250フィート下」(英: "250 feet under the Channel")に眠っていると信じていることを明かしたが、これはルーカンの友人たちがおおっぴらに語っていた筋書きと同じようなものだった。ヴェロニカは夫の末期について、海峡を通るフェリーに身を投げ、「高貴な身分の生まれ通り」(英: "like the nobleman he was")自殺したと信じていた。 ランソンは後に考えを改め、自殺はルーカンの考えとは程遠く、噂されるように海に投身したというのは信じ難いもので、彼がアフリカ南部に移住したというのがもっともらしいと結論付けた。殺人から30年後の2004年、『テレグラフ』紙に、ルーカン失踪に関して新調査を行っていた刑事から、「証拠から導き出されるのは、ルーカン卿がこの国を離れ、海外で数年間生きていたという事実だ」との言説が発表された。作家のジョン・ピアソン(英語版)によれば、スーザン・マクスウェル=スコットは死ぬ前に、ルーカンは国外で闇の地下組織から助けを受けており、その後匿うのは大きなリスクだと判断され、殺害されてスイスに埋められたのではないかと仄めかしていたという。同様の説は、クラーモント・セット(英語版)で親交があった、広告担当幹部のジェレミー・スコットも唱えていた。 ルーカンの失踪は何十年も大衆の想像力を掻き立て続け、世界中で多数の目撃証言がある。最も時期が早いのは、リヴェット殺人の直後、自身の偽装自殺を企てた元イギリス国会議員、ジョン・ストーンハウス(英語版)が関係する一件である。警察は別の筋を辿って、翌年6月にフランスへ向かったが、無益に終わった。コロンビアでの目撃証言は、アメリカのビジネスマンだと分かった。賞金稼ぎのジョン・ミラー(英: John Miller)は、大列車強盗 (1963年)(英語版)の犯人で逃亡していたロニー・ビッグズを誘拐した人物で、1982年に伯爵を確保したと宣言したが、後に『ニュース・オブ・ザ・ワールド』紙で作り話だったとすっぱ抜かれた。2003年には、スコットランド・ヤードの元刑事が、ルーカンらしき男をインドのゴア州まで追跡したが、実際はセント・ヘレンズ出身のフォーク歌手、バリー・ハルピン(英: Barry Halpin)だったことを明かした。2007年には、ニュージーランドのリポーターが、イギリス出身 (en) のホームレスで、隣人たちに失踪した伯爵だと言われている人物に、取材を試みた(ただし本人は否定した)。 さらに最近では、父のルーカン伯爵が「遠くから」(英: "from a distance")こっそりと子どもたちを見守れるよう、上の子ども2人を1980年代にガボンに送ったという話もあったが、息子のジョージはガボンを訪れたことすらないと否定した。ヴェロニカは新聞各紙による目撃記事を「ナンセンス」(英: "nonsense")だとして切り捨て、自分の夫は「海外で上手く乗り切るようなイングランド人ではない」という自説を繰り返した。ヴェロニカはその後、2017年9月に80歳で亡くなった。
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