ナチスとの関わり
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「アウグスト・フォン・マッケンゼン」の記事における「ナチスとの関わり」の解説
台頭するナチスに対する姿勢は複雑だった。伝統的なプロイセン軍人としてナチスに懐疑的ではあったが、同様な立場にあった元軍人のパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領と違い、アドルフ・ヒトラーを認めていた。ナチスはドイツ帝国の伝統とナチスによる「第三帝国」の連続性を強調するためにプロイセンを利用したが、マッケンゼンへの接近もその一つだった。ヒトラーは1935年にブランデンブルク州で荘園をマッケンゼンに与えている。ただしマッケンゼンはドイツ軍や親衛隊によるポーランドでの蛮行や、ナチスの反教会政策には真っ向から反対し、抗議の公開書簡を発表している。また長いナイフの夜事件によるシュライヒャー、ブレドウらの死についてはヒトラーに直接抗議し、容れられないと見ると将校28名と連名でヒンデンブルク大統領に書簡を送っている。この書簡の中でブロンベルク国防相やノイラート外相とナチスの閣僚を罷免し、執政機関による統治を要請している。それでもこれらの責任はヒトラーではなく部下にあると考えており、ヒトラー自身に反対することはなかった。 第二次世界大戦中の1941年6月、亡命先で死んだかつての主君ヴィルヘルム2世の葬儀に参列するためオランダに赴いた。1944年7月20日、ドイツ国防軍将校によるヒトラー暗殺未遂事件が起きた時は首謀者たちを激しく非難し、直後に設置された国防軍名誉法廷の一員として計画参加者の不名誉除隊に関わり、軍法会議ではなくローラント・フライスラー判事の人民法廷による彼らに対する見せしめ裁判への道を開いた。敗色濃厚になった1944年11月には若者に対して祖国のために死ぬ覚悟をもつことを訴えている。彼は最後までヒトラーへのシンパシーを失わず、プロイセンの軍国主義とナチスの総統崇拝の橋渡しに加担したと評価されている。これらのことからオットー・フォン・ハプスブルクなどはマッケンゼンを「第三帝国の高貴なプロイセン人」と評している。 1945年初頭、ソ連軍がドイツ本国に迫る中、彼は夫人と共にニーダーザクセン州に疎開した。5月にドイツは降伏した。96歳の誕生日を一カ月後に控えたその年の11月、彼は死去した。
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ナチスとの関わり
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「ハンス・ギュンター」の記事における「ナチスとの関わり」の解説
1935年にギュンターは人種学の権威としてベルリン大学に生物学と人種学の教授として招致され、1940年からは最初の母校であるフライブルク大学でも教鞭を執った。背景には彼の理論に傾倒していたナチスの台頭があり、ナチスは人種政策の決定においてギュンターの理論を下敷きにして行っていた。ギュンターもまた1931年にナチスに入党していた。 ナチスはギュンターに大学の教授職を歴任させつつ、いくつもの権威ある科学賞を彼に授与した。その中にはアドルフ・ヒトラー自らが創設した芸術・科学で偉大な功績を残した人物に与えられるとしたゲーテ・メダル(ドイツ語版)も含まれており、ナチスの党機関紙はギュンターの学説を「ナチスの誇り」とまで賛美した。 第二次世界大戦が勃発するとより深くナチスと関わり、1941年3月には東部占領地域相アルフレート・ローゼンベルクから「ユダヤ人問題会議」のメンバーに指名され、人種的側面からユダヤ系住民の扱いについて意見を求められた。会議ではユダヤ系住民の扱いについて同化政策や強制労働、大量虐殺に至るまで様々な「解決法」が延々と議論された。ギュンターは会議について「退屈であった」とだけ書き残しており、彼がローゼンベルクの「ユダヤ人絶滅政策」に積極的に関与したかどうかは定かではない。 とはいえ東ヨーロッパ人種の劣等論などナチズムのイデオロギー形成に多大な影響を与え、自らも恩恵を受けていたギュンターがナチスに無関係とは言いがたかった。第二次世界大戦終結後にギュンターは連合軍に拘束され、「直接的に関与はしていない」と結論付けられたものの、3年間の捕虜生活を送ることになった。
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