見せしめ裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/26 17:29 UTC 版)
「ニコライ・クレスチンスキー」の記事における「見せしめ裁判」の解説
クレスチンスキーは大粛清期に逮捕される1937年まで、外交官として働き続けた。彼は(いわゆる「21人裁判」の一部として)裁判にかけられた。モスクワ裁判においては、他のほとんど全ての被告が罪を認める一方で、クレスチンスキーは初め、全てを否定していた。 私が有罪など、認めるわけにはいかない。私はトロツキー派ではない。私は決して"右翼トロツキー・ブロック"のメンバーではないし、そんなものの存在すら知らない。また、私個人に転嫁された犯罪はただの一つたりとも行ってはいない。 ―― そして特に、ドイツの情報機関との関係を維持していたことについて、私は無罪である。 — 1938年3月12日、裁判長ヴァシリー・ウルリヒに行った陳述 しかし翌13日には前言を撤回、有罪を認める陳述を行ってしまう。 昨日は、被告席の雰囲気と、起訴状朗読による辛い印象とにより呼び起こされたいわれなき恥辱であるという感覚を、一時的に抱いていた影響のために、そして私の体調不良がそれをいっそう重く感じさせ、私は本当のことを述べることができず、有罪であることを認めることができませんでした。そして「私は有罪です」と述べる代わりに、ほぼ機械的に「私は無罪です」と答えてしまいました。 クレスチンスキーがその考えを覆した理由に、物理的あるいはそれ以外の強制がなかったとは信じ難い。この挿話は、十分に練られた1930年代末の見せしめ裁判(英語でshow trial)の中ではヨシフ・スターリンの失敗例の一つであった。 1938年3月、クレスチンスキーは死刑を言い渡され、執行された。彼はフルシチョフの不完全な非スターリン化時代に一部無罪とされ、ペレストロイカ時代にすべての罪状で無罪とされた。
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