逮捕、拷問、処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/10 18:19 UTC 版)
「ヴィトルト・ピレツキ」の記事における「逮捕、拷問、処刑」の解説
1947年5月8日、ピレツキはポーランド公安省に逮捕され、裁判が始まる前に繰り返し拷問を受けた。取り調べはロマン・ロムコフスキ大佐が担当、尋問は残忍さで知られるユゼフ・ルジャインスキ大佐とS・ウィシャコフスキ、W・クラフチンスキ、J・クロシェル、T・スウォヴィアネク、エウゲニウシュ・ヒムチャク中尉らによって行われた。半年に及ぶ尋問でピレツキは両手の爪をすべて剥がされ首から下が青黒く変色するほどの凄惨な拷問を受けたが、他の囚人を守り機密情報を明かさなかった。後にピレツキは法廷で会った妻に「ここでの拷問に比べれば、アウシュヴィッツなど子供の遊びだ」と呟いている。 見せしめ裁判は1948年3月3日に開廷し、アウシュヴィッツの生存者で後にポーランド首相になるユゼフ・ツィランキェヴィチが証言台に立った。ピレツキには密入国、偽造文書使用、軍入隊拒否、不法武器所持、アンデルス将軍の下でのスパイ活動、"外国帝国主義国"(英国諜報部)の為のスパイ活動、およびポーランド公安省高官の暗殺計画立案の容疑がかけられた。ピレツキは暗殺およびスパイ活動については容疑を否認したが、第2師団へ情報を供与したことは認めた。ただし自分は師団の士官であるから如何なる法も犯していないと主張している。その他の容疑について有罪判決が下り、ピレツキは同志3名と共に死刑を宣告され、1948年5月25日モコトゥフ監獄でピオトル・シミェタンスキに後頭部を銃で撃たれ処刑された。死刑判決を受け裁判長から発言を許されたとき、ピレツキは次のような言葉を残している。 「私が人生の流儀としてきたのは、その最後の瞬間まで私を支配するのが恐怖ではなく、私にとってこの闘いが、祖国の独立とわがポーランドの人々の自由を勝ち取るための闘いだと得心することだった。」 —小林公二「アウシュヴィッツを志願した男」講談社、p.229 ピレツキが埋葬された場所は未だ不明だが、ワルシャワのポヴォンスキ軍人墓地のどこかだとされている。ポーランドで共産党政権が崩壊した後、オストロフ・マゾヴィエツカ墓地にピレツキの慰霊碑が建てられた。2012年、ピレツキの遺体を捜索するためポヴォンスキ墓地の一部で掘削調査が行われた。
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