中国共産党への影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 14:47 UTC 版)
この時期にモスクワを訪問していた中国共産党のメンバーの一人に康生がいた。彼は中国共産党中央コミンテルン駐在代表団団長となった王明に従って4年ほど滞在したが、彼はこの間にNKVDによる容疑者への逮捕・拷問・処刑などを身近に体験したといわれる。また、自身も王明などの指示の下、中国共産党ソ連留学生をトロツキストとして攻撃し、彼等の迫害に関与した。1937年11月に帰国した後に延安に移り、翌1938年には共産党中央社会部長、情報部長となり、以後党内の「スパイ」摘発工作で辣腕を振るう。1942年から1943年頃には毛沢東と劉少奇の下で「整風運動」と称された粛清の実行に当たった。緊急措置をとり、拷問による自白を証拠として、多くの党員をスパイ、裏切り者、内通者として赤色テロを行った。これら一連の行為により、康生は「中国のジェルジンスキー、(あるいは)ベリヤ」と呼ばれるようになる。文化大革命中に死去するが、その悪行により、党から死後に除名された。
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