中国共産党の武装組織の軍服(1929年~1949年)
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「軍服 (中華人民共和国)」の記事における「中国共産党の武装組織の軍服(1929年~1949年)」の解説
現在の人民解放軍の全身である共産党の武装組織、中国工農紅軍は、国民革命軍内部の共産党勢力が追放、分離独立したものであり、したがって軍服も国民革命軍同様、ブルーグレーの中山服を基調としたものとなった。 1929年3月、紅軍は長汀県を占領。その際現地の衣類工場を接収し、紅軍の被服廠とした。ここで初めて紅軍の軍服が制式に採用されたのである。 帽子には赤い星の帽章が配され、上着には全構成員が一律に平行四辺形の赤い襟章を付けており、ポケットの形状や襟章の有無などかなりばらつきがあるものの、階級をはじめ軍種・兵科の区別を示すものの一切ないシンプルな意匠である。また、このとき採用されたレーニンが好むキャスケット風の防止「人民帽」は戦後、民間に人民服とともに浸透した。徽章類は当時の国民革命軍の名残で、カフリンクスのような留め具で胸ボタンに引っ掛け垂らした。 この軍服は中共にとって、自らが初めて軍隊を持ったという証明であり、また人民解放軍の原点として非常に思い入れのあるものである。共和国成立後、後述のように文革の時代にこの意匠を模した六五式が採用されたほか、現在でも政府関係のイベント等でよく見られる。 第二次国共合作に伴い、紅軍は新四軍・八路軍として国民革命軍に編入された事から正規軍同様の軍服の着用が求められたが、前述のとおり帽子以外は国民革命軍と同じ中山服であるため、青天白日章の入ったオーストリア式の規格帽(山岳帽)を被るのみで十分であった。しかし、幹部の中では依然として紅軍の帽子を使用した者もおり、兵士間でも襟章を残している者も少なからず見受けられる。 毛沢民 帽章が入っていない。楊尚昆 1936年,紅軍第一軍団と十五軍団の幹部。色合いのばらつきが大きい。 毛沢東、賀子珍。1937年。 右端の人物(博古)の帽子は野球帽スタイルとなっている。 新四軍幹部(1940年) 八路軍幹部(1940年 新四軍、1943年。 八路軍の兵士。帽子こそ国民革命軍の規格帽だが、紅軍の襟章を残している。 1944年10月には、毛沢東(第2左)と朱徳(第1左)が延安空港の八路軍359旅団を見直し、前3左は王鎮司准将である。 延安の少年兵。紅軍の襟章を残している。 国共内戦にて(1946年) 革命模範劇にて再現された紅軍の軍服。
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