汎アラブ主義とイスラーム主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/21 15:03 UTC 版)
「汎アラブ主義」の記事における「汎アラブ主義とイスラーム主義」の解説
なお、職業的なマスコミでさえしばしば誤解、もしくは曲解と受け止められる報道をするが民族運動である汎アラブ主義と、宗教運動であるイスラーム主義、更にはイスラーム「原理主義」は時と場合によっては対立する概念である。 汎アラブ主義においてはイスラム教は「アラブ民族の誇る宗教文化の一つ」とされるが政治へのイスラム教の介入は忌避された。この事はキリスト教徒、ユダヤ教徒等の非イスラム教徒アラブ人が汎アラブ主義に参加している大きな理由である。また、シリアのハーフィズ・アル=アサド大統領の出身であるイスラム教アラウィー派の様に、イスラム主流社会たるスンニ派やシーア派(12イマーム派)から差別された少数派であっても参加する事ができる大きな理由となった。 しかし、これは明確な主張というよりは、無神論を訴える共産主義(マルクス主義)と既存の民族主義の妥協の産物といえるものであった。アラブ諸国においてソヴィエト式の厳密なマルクス・レーニン主義体制を取った国は、過去には旧南イエメン人民共和国(現・イエメン)しか存在していない。なお、これに対して旧北イエメン(イエメン・アラブ共和国)は王政が倒された後にナーセルに強い影響を受けた汎アラブ主義国家が誕生しており(外交的には親サウジアラビア→親エジプト及びソヴィエト→親サウジアラビア及び旧西側諸国)、統一されるまでアラブ社会独特の南北問題が存在していた事になる。 このため、現実には宗教と政治を分離する名分に乏しく、伝統的に宗教の力が強いアラブにおいて発生した汎アラブ主義は政教分離に成功していないとされる。シリアでは1973年にハーフィズ・アル=アサド大統領がレバノンのシーア派イスラーム指導者ムーサ・サドルから「アラウィー派はシーア派の分派である」とのファトワーを引き出した。この様にイスラームとの距離のおき方は成立以来の懸念材料であった。 それでも神権を第一とするイスラーム主義にとっては、イスラームを表面的・形式的とはいえ減退させる汎アラブ主義とは対立せざるを得ない。エジプト、シリア等では早くからムスリム同胞団等による爆弾テロや要人誘拐・暗殺が起こり、シリアに至ってはその報復に無関係の多数の一般市民を巻き込んだ弾圧に乗り出した。 1982年、シリアの大都市の一つでスンニ派社会の中心であったハマーでムスリム同胞団による反政府暴動が発生し、当時のシリア大統領ハーフィズ・アル=アサドは大統領親衛隊、特殊部隊、空軍を動員してこれを強硬に鎮圧。ムスリム同胞団ばかりでなく一般市民の多くが逮捕・拷問・処刑され、歴史的建造物やモスクを含むハマ市街そのものが砲撃や爆撃で破壊されるという大弾圧を行った(ハマー虐殺)。 (なお、シリアはアメリカからレバノンのイスラーム主義組織「ヒズボラ」に対する支援が指摘されてテロ支援国家に指定されているが、これはシリアのバアス党政権とヒズボラが掲げる反イスラエルという共通の利害の一致によるものと考えられる。また、近年ではイスラエル以上にアルカイーダ系のスンナ派イスラム過激派勢力の伸張が、世俗主義とイスラーム主義、アラブ人とペルシア人という本来なら対立概念をも含んでいるはずのシリア・ヒズボラ・イランの非スンナ派同盟をより強固なものとしている。) イラン(ペルシア人)のイスラム革命の直後に起こったイラン・イラク戦争は、この対立が具現化したものである。 このほか表面的、欧米的な見方ではあるが、汎アラブ主義の社会主義的側面を捉えてアラブ独自の左翼、民族主義的側面を捉えて右翼と捉える識者もいる。 またアルカーイダ系のイスラム過激派は汎アラブ主義に強硬に反対しており、アメリカのブッシュ(息子)政権がイラク戦争前に主張した「サッダーム・フセイン政権とアルカイーダが協力関係にある」との見解は、汎アラブ主義に基づいた反欧米・反イスラエルと、イスラーム主義に基づいた反欧米・反イスラエルを混同した最たるものである。
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