汎スラブ主義での議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 17:49 UTC 版)
「東方への衝動」の記事における「汎スラブ主義での議論」の解説
ヘンリー・コード・マイヤー(Henry Cord Meyer)の著した書籍「Drang nach Osten: Fortunes of a Slogan-Concept in German-Slavic Relations, 1849-1990」によれば、スローガン「東方への衝動」のほとんどがスラヴ民族の世界で発案され、ドイツよりもより広く使用されていたとしており、「それ(東方への衝動)が流布していた主な地域はスラヴの世界であった。本当に、ドイツの学者たちの大部分はドイツに反対する運動、汎スラヴ主義(後にソビエト運動)としてスローガンを拒絶した。」とされている。そしてさらに、「ソビエト連邦地域における歴史書の頼みの綱、そして、プロパガンダであった・・・(中略)・・・たとえ、概念が第二次世界大戦以降、幅広く受け入れられたことがスラヴ民族の歴史書で発見されたとしても、これはそれが実際に正確であるということを意味しない。その言い回しは11世紀から現在まで、しばしばドイツの歴史の基本的連続性を暗示することに最も利用される。それはドイツの国民性とスラヴ民族の固定観念と密接な関係が存在する。」としている。 19世紀のナショナル・ロマンティシズムの発展により、ポーランド及びロシアの知識人たちはドイツの東方殖民として「東方への衝動」について言及し始めた。バルカン諸国(例えば、ボスニア・ヘルツェゴビナ)への領土拡大を通して、傾きつつあるオスマン帝国(東方問題)とオーストリア=ハンガリー帝国に対して影響を増すドイツという形で 、ドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国は東方へ勢力を拡大しようとした。
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