汎アラブ主義・反米主義路線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 22:46 UTC 版)
「ムアンマル・アル=カッザーフィー」の記事における「汎アラブ主義・反米主義路線」の解説
カッザーフィーは、ナーセルの汎アラブ主義の後継者として1972年にはエジプトのアンワル・アッ=サーダート、シリアのハーフィズ・アル=アサドと組んで汎アラブ主義三か国によるアラブ共和国連邦を構想したが、本格的な統合を見ないまま5年後に解消している。1970年代はカッザーフィーの汎アラブ思想に振り回されたエジプトのサーダート大統領からは「頭のてっぺんから足の爪の先まで狂っている男」と評されており、中華人民共和国にアブデルサラム・ジャルード(英語版)首相を派遣して核兵器の購入を申し出て中国政府を驚愕させたこともあった。後にリビアがIAEAの査察を受け入れた際に中国製の核爆弾設計図が報告されるもこれはパキスタンから流入したものとされる。 カッザーフィーはパレスチナ解放機構 (PLO) の有力かつ公然の支持者であった。そのため1979年にサーダート大統領がイスラエルと和平したエジプトとの関係を決定的に悪化させた。また、資金援助などを通じて西アフリカを中心に影響力を維持していたほか、地域機関であるサヘル・サハラ諸国共同体 (CEN-SAD) を創設し、アフリカにおける影響力拡大の足場としていた。 当時のカッザーフィーの欧米諸国との関係は常に対立的で、アラブ最強硬派と目されていた。1984年の駐英リビア大使館員による反リビアデモ警備をしていた英国警官射殺事件、1985年のローマ空港・ウィーン空港同時テロ事件、1986年の西ベルリンディスコ爆破事件など、テロ支援の問題から欧米との関係は悪化の一途をたどり、1970年代と1980年代の欧米やイスラエルに対する過激派のテロを支援した疑惑がもたれていた。それに対し、アメリカはカッザーフィーの居宅を狙って空爆する強硬手段(リビア爆撃)を取り、カッザーフィーを暗殺しようとした。カッザーフィーは外出しており危うく難を逃れた。1988年の死者270人を出したパンナム機爆破事件はリビアの諜報機関員が仕掛けたテロであるとされるが、カッザーフィーは容疑者の引渡しを拒否し、国連制裁を受ける。そのためリビアは当時のアメリカのロナルド・レーガン政権から「テロリスト」「狂犬」として名指しの批判を受け、以後アメリカとの対立は続いた。 この経験から、以降は住む場所を頻繁に変えていたという。また、この空爆の直前、作戦に反対だったイタリア政府(当時政権の座にあったベッティーノ・クラクシ首相、ジュリオ・アンドレオッティ外相の決断による)から極秘に空爆を通告されていたことが後日判明した。汎アラブ主義に対する評価はさまざまであるが栗本慎一郎等一部保守派の中にも死後に「カダフィーの内政やテロ支援での独裁政治はともかく石油の関税自主権を国際石油資本から取り戻し国民にも一定の繁栄をもたらした。」と評価する声もある。
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