汎ヨーロッパ・ピクニックの開催とは? わかりやすく解説

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汎ヨーロッパ・ピクニックの開催

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 09:44 UTC 版)

汎ヨーロッパ・ピクニック」の記事における「汎ヨーロッパ・ピクニックの開催」の解説

こうした状況の中、ハンガリー民主化求め民主フォーラムや他の民主化求め勢力は、多少強引にでも彼らを越境させてしまおう、と考えようになった。既に非共産党政治勢力活動認められていたハンガリーでは、こうした民主化求め運動活発になっていた。 それが「ピクニック」という形になったのは、軽い冗談きっかけだった。1989年夏、オーストリア=ハンガリー帝国最後皇太子であるハプスブルク=ロートリンゲン家当主オットー・フォン・ハプスブルクは、デブレツェン大学講義行ったその日オットー歓迎する夕食会で、デブレツェン在住民主フォーラム活動家メサロシュ・フェレンツが、ハンガリー鉄のカーテンによる分断から解放されたことを祝おう冗談言ったところ、周囲出席者からは様々なアイディア出てきた。 その中から、オーストリア・ハンガリー国境地帯たき火をしてバーベキュー・パーティを行いハンガリー人オーストリア人が、国境フェンス囲んで食べ物交換し合うことで、ヨーロッパ東西分断するフェンスが、地理歴史オーストリアハンガリー20世紀初頭まで同じ国家だった)を無視している事実世界示そう、という案が出たのである。 この話で夕食会盛り上ったが、その時パーティの席での冗談であった。メサロシュが夕食会10日後に、民主フォーラム会議席上でこの話をした時も、多く出席者冗談受け止めたが、フィレプ・マリア(英語版)という女性は、これを本格的に実行することをメサロシュに提案し2人準備始めた2人はまず、オットー・フォン・ハプスブルクと、MSZMP改革派として民主化主導していたポジュガイ・イムレ(ハンガリー語版)政治局員支援要請したオットーはこれを受諾し、ポジュガイもこの支援要請快諾すると、ネーメト首相と共に話し合い「そのピクニック単なるピクニックではなくもっともっと大きな出来事にしよう」と決めた。既にオーストリア国境開放していた彼らは、ハンガリー共産圏から離脱することを世界アピールする良い機会だと思ったのであるネーメトは後に「これこそ、我々が抱えているドイツ民主共和国問題対す解決策でした」と語っており、東ドイツ政府市民国外移住制限していることに、ある程度打撃与えることまで考えていたことも示唆している。 ネーメト、ポジュガイは秘密裏慎重に計画実行移したハンガリー内務省指揮下の治安組織は、内相英語版)ホルヴァート・イシュトヴァーン(英語版)が改革派なので信頼できたが、東ドイツシュタージハンガリー国内にもメンバー送り込んでいた)やMSZMP保守派率い準軍事組織などに妨害されないようにする必要があったのである。 こうして1989年8月19日に、ハンガリー・オーストリア国境地帯属すショプロン汎ヨーロッパ・ピクニック開かれたショプロン選ばれたのは、この町がハンガリーから飛び抜けてオーストリア領に食い込むような形になっており、三方オーストリア囲まれていたため、比較オーストリア脱出しやすいと考えられたためである。 この集会厳密に2つ分かれており、公的行事民間行事2つ同時に行う形式取っていた。まず、公式のイベント午後2時ころから始まりショプロン主催者たちの記者会見が行われた。その後民間主催ピクニック開催されている場所まで、関係者取材陣はバス移動したが、開催地にはオーストリア側から予想上の人々が集まり主催者にもかかわらず近寄れない状態であった一方、ポジュガイが手配したバスが、ショプロン郊外ホテルキャンプ地から東ドイツ市民乗せピクニック開催地まで送り届けたバスには東ドイツ市民殺到し、それをハンガリー側と西ドイツ領事館スタッフ誘導した東ドイツ市民中には、既に西ドイツ用意したパスポート持った者もいた。また、オーストリア側にはバスが何台も用意されていた。これはオーストリア側のザンクト・マルガレーテンドイツ語版)の市長が、西ドイツ政府要請受けて手配したもので、その日のうちに西ドイツ移動できるようになっていた。 集会名目としては「ヨーロッパ将来考え集会であった会場ではブラスバンド演奏し食べ物ビール出されチロル民謡ハンガリー民謡合わせて人々踊っていた。そこをハンガリーオーストリア外交官挨拶をして周り見た目単なる青空の下で祭典にしか見えない様子であったハンガリー国境警備隊は、1キロメートル以内に近づかないよう命じられていた。 午後3時国境検問所一部壊された。そこへ東ドイツ市民乗せたバス到着し人々降ろしはじめると、東ドイツ市民お祭り騒ぎには目もくれず、一目散に国境向かった国境検問所ゲート大きく開かれ東ドイツ市民走ってゲート抜けて行ったハンガリー国境検問所国境管理官は、これ見よがし東ドイツ市民には背を向け入国してくるオーストリア人パスポート入念にチェックしたオーストリア人旅行者たちは、その光景見て大笑いし東ドイツ市民通りすいように道を開けたネーメト首相執務室特設された連絡回線使って現場様子モニターしていたが、ピクニック成功受けて胸をなで下ろした。 この日のうちに続々東ドイツ市民到着し、661人がオーストリアへの越境成功した8月ハンガリーからオーストリア経て自力越境した人々3000人に達したその日ハンガリー国放送ピクニック様子報道したが、600人以上の東ドイツ人が脱出したことには触れなかった。当時ホーネッカー急性胆嚢炎療養生活に入っており、東ドイツ指導部有効な手立て講じることが出来なかった。治安問題担当書記政権ナンバー2目されていたエゴン・クレンツピクニック8日前である8月11日一時的に職務復帰したホーネッカー対し出国者数を報告し国民大量出国問題を党の政治局討議するよう進言していた。しかし、ホーネッカーは「それで、どうするつもりかね。なんのために出国者の統計など出すのか。それがどうした。壁を築く前に逃げた連中はるかに多かったよ」と言ってクレンツ進言意に介さずそれどころ進言したクレンツ長期休暇命じて政権中枢から遠ざけていた。 ところが、西ドイツテレビ中継映像ピクニック様子見ていたホーネッカーは、駐東ドイツハンガリー特命全権大使激しく抗議し東ドイツ市民強制送還するよう要求した。しかし、ハンガリーはこれには応じず、後の祭であったこの中映像流されてから、東ドイツでは誰もが出国について口にするようになったと言われる

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