汎ヨーロッパ・ピクニックの開催
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「汎ヨーロッパ・ピクニック」の記事における「汎ヨーロッパ・ピクニックの開催」の解説
こうした状況の中、ハンガリーで民主化を求める民主フォーラムや他の民主化を求める勢力は、多少強引にでも彼らを越境させてしまおう、と考えるようになった。既に非共産党政治勢力の活動が認められていたハンガリーでは、こうした民主化を求める運動が活発になっていた。 それが「ピクニック」という形になったのは、軽い冗談がきっかけだった。1989年夏、オーストリア=ハンガリー帝国最後の皇太子であるハプスブルク=ロートリンゲン家当主のオットー・フォン・ハプスブルクは、デブレツェンの大学で講義を行った。その日、オットーを歓迎する夕食会で、デブレツェン在住の民主フォーラム活動家メサロシュ・フェレンツが、ハンガリーが鉄のカーテンによる分断から解放されたことを祝おうと冗談を言ったところ、周囲の出席者からは様々なアイディアが出てきた。 その中から、オーストリア・ハンガリーの国境地帯でたき火をしてバーベキュー・パーティを行い、ハンガリー人とオーストリア人が、国境のフェンスを囲んで食べ物を交換し合うことで、ヨーロッパの東西を分断するフェンスが、地理や歴史(オーストリアとハンガリーは20世紀初頭まで同じ国家だった)を無視している事実を世界に示そう、という案が出たのである。 この話で夕食会は盛り上ったが、その時はパーティの席での冗談であった。メサロシュが夕食会の10日後に、民主フォーラムの会議の席上でこの話をした時も、多くの出席者は冗談と受け止めたが、フィレプ・マリア(英語版)という女性は、これを本格的に実行することをメサロシュに提案し、2人で準備を始めた。 2人はまず、オットー・フォン・ハプスブルクと、MSZMPの改革派として民主化を主導していたポジュガイ・イムレ(ハンガリー語版)政治局員に支援を要請した。オットーはこれを受諾し、ポジュガイもこの支援要請を快諾すると、ネーメト首相と共に話し合い「そのピクニックを単なるピクニックではなく、もっともっと大きな出来事にしよう」と決めた。既にオーストリア国境を開放していた彼らは、ハンガリーが共産圏から離脱することを世界にアピールする良い機会だと思ったのである。 ネーメトは後に「これこそ、我々が抱えているドイツ民主共和国問題に対する解決策でした」と語っており、東ドイツ政府が市民の国外移住を制限していることに、ある程度打撃を与えることまで考えていたことも示唆している。 ネーメト、ポジュガイは秘密裏に慎重に計画を実行に移した。ハンガリー内務省指揮下の治安組織は、内相(英語版)ホルヴァート・イシュトヴァーン(英語版)が改革派なので信頼できたが、東ドイツのシュタージ(ハンガリー国内にもメンバーを送り込んでいた)やMSZMPの保守派が率いる準軍事組織などに妨害されないようにする必要があったのである。 こうして1989年8月19日に、ハンガリー・オーストリア国境地帯に属するショプロンで汎ヨーロッパ・ピクニックが開かれた。ショプロンが選ばれたのは、この町がハンガリーから飛び抜けて、オーストリア領に食い込むような形になっており、三方をオーストリアに囲まれていたため、比較的オーストリアに脱出しやすいと考えられたためである。 この集会は厳密には2つに分かれており、公的行事と民間行事の2つを同時に行う形式を取っていた。まず、公式のイベントが午後2時ころから始まり、ショプロンで主催者たちの記者会見が行われた。その後、民間主催のピクニックが開催されている場所まで、関係者や取材陣はバスで移動したが、開催地にはオーストリア側から予想以上の人々が集まり、主催者にもかかわらず近寄れない状態であった。 一方、ポジュガイが手配したバスが、ショプロン郊外のホテルやキャンプ地から東ドイツ市民を乗せ、ピクニックの開催地まで送り届けた。バスには東ドイツ市民が殺到し、それをハンガリー側と西ドイツの領事館のスタッフが誘導した。東ドイツ市民の中には、既に西ドイツが用意したパスポートを持った者もいた。また、オーストリア側にはバスが何台も用意されていた。これはオーストリア側のザンクト・マルガレーテン(ドイツ語版)の市長が、西ドイツ政府の要請を受けて手配したもので、その日のうちに西ドイツに移動できるようになっていた。 集会の名目としては「ヨーロッパの将来を考える集会」であった。会場ではブラスバンドが演奏し、食べ物やビールが出され、チロル民謡やハンガリー民謡に合わせて人々が踊っていた。そこをハンガリーとオーストリアの外交官が挨拶をして周り、見た目は単なる青空の下での祭典にしか見えない様子であった。ハンガリーの国境警備隊は、1キロメートル以内に近づかないよう命じられていた。 午後3時、国境の検問所の一部が壊された。そこへ東ドイツ市民を乗せたバスが到着し、人々を降ろしはじめると、東ドイツ市民はお祭り騒ぎには目もくれず、一目散に国境へ向かった。国境検問所のゲートは大きく開かれ、東ドイツ市民は走ってゲートを抜けて行った。ハンガリーの国境検問所の国境管理官は、これ見よがしに東ドイツ市民には背を向け、入国してくるオーストリア人のパスポートを入念にチェックした。オーストリア人旅行者たちは、その光景を見て大笑いし、東ドイツ市民が通りやすいように道を開けた。ネーメトは首相執務室で特設された連絡回線を使って、現場の様子をモニターしていたが、ピクニックの成功を受けて胸をなで下ろした。 この日のうちに続々と東ドイツ市民が到着し、661人がオーストリアへの越境に成功した。8月にハンガリーからオーストリアを経て自力で越境した人々は3000人に達した。 その日のハンガリー国営放送はピクニックの様子を報道したが、600人以上の東ドイツ人が脱出したことには触れなかった。当時ホーネッカーは急性胆嚢炎で療養生活に入っており、東ドイツ指導部は有効な手立てを講じることが出来なかった。治安問題担当の書記で政権ナンバー2と目されていたエゴン・クレンツはピクニックの8日前である8月11日、一時的に職務に復帰したホーネッカーに対し、出国者数を報告し、国民の大量出国問題を党の政治局で討議するよう進言していた。しかし、ホーネッカーは「それで、どうするつもりかね。なんのために出国者の統計など出すのか。それがどうした。壁を築く前に逃げた連中ははるかに多かったよ」と言って、クレンツの進言を意に介さず、それどころか進言したクレンツに長期休暇を命じて政権中枢から遠ざけていた。 ところが、西ドイツのテレビの中継映像でピクニックの様子を見ていたホーネッカーは、駐東ドイツハンガリー特命全権大使に激しく抗議し、東ドイツ市民を強制送還するよう要求した。しかし、ハンガリーはこれには応じず、後の祭りであった。この中継映像が流されてから、東ドイツでは誰もが出国について口にするようになったと言われる。
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