宗教と政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/19 02:08 UTC 版)
「チャールズ・カルバート (第3代ボルティモア男爵)」の記事における「宗教と政治」の解説
カルバートが総督になった時までに、メリーランド植民地の人口は移民によって増加し、次第にプロテスタントが多くなっていった。しかし、政治権力は大部分がローマ・カトリック教徒のエリートの手に集中したままだった。カトリックから人口構成が変わっていったにも拘わらず、カルバートはメリーランド植民地のカトリックと言う意識付けを残そうとした。1669年から1689年、総督評議員となった27人の者の中では、8人がプロテスタントだった。評議員の大半がカトリックであり、多くはカルバートの血縁か姻戚であり、政治的な利益関係を維持し、民兵隊の指揮官や土地事務所の閑職のような魅力ある役職を占めることが多かった。 カルバートとその臣民の間の紛争の多くは、イングランドの法がどこまでメリーランドに適用されるべきか、また領主総督はどの程度法の外の独自の特権を行使できるかという疑問に変わった。議会の議員は法の「全的権限」を確立したいと考えたが、その特権を守ってきたカルバートは自身とその評議員のみが、イングランドの法を何時何処で適用すべきかを決められると主張した。そのような不確かさが専断的な政府の告発を行え、また許した。 カルバートは多数派であるプロテスタントの影響力を抑えるために様々な方法を実行した。1670年、選挙権を、土地50エーカー (200,000 m2) 以上を所有する、あるいは資産が40ポンド以上ある男性に限定した。植民地議会議員になる資格として、少なくとも1,000エーカー (4 km²) の土地を所有していることとした。1676年、有権者には議員には半数を選ぶ、すなわち4人を2人にするよう指示した。このような方法は議会を操作しやすくしたかもしれないが、カルバートと臣民の間の関係に歪を生じさせていた。
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