宗教と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 10:12 UTC 版)
現代の歴史家は「ゲディミナスやアルギルダスが異教を保持したことは外交上の手段や武器として役に立った…勢力と独立を維持する手段として改宗の約束を使用することを可能にした」と論じている。ヘルマン・フォン・ヴァルトベルゲやヤン・ドゥウゴシュによればアルギルダスは1377年の夏に死ぬまで異教徒のままだった。同時代の東ローマ帝国の報告も西方の資料を支持している。ネイロス総主教はアルギルダスは「火を崇拝する大公」と記し、別の総主教フィロセオスは「不信仰の」アルギルダスを援助したルーシの貴族全員を破門している。アルギルダスの異教の信仰は14世紀の東ローマの歴史家であるニケフォロス・ゲオルギウスの報告にも見出せる。 アルギルダスは18頭の馬やマイシャガラ_恐らく北緯54度55分42秒 東経25度01分04秒 / 北緯54.92833度 東経25.01778度 / 54.92833; 25.01778に位置するクカヴィェイティスの森林聖堂_付近の木製の所有物とともに儀式用の薪で焼かれた。2009年現在、埋葬地の可能性のあるマイシアガラ付近が調査と発掘を受けている。アルギルダスの子孫にはトルベツコイ家、チャルトリスキ家、サングシュコ家といった貴族の家系が含まれる。 アルギルダスを回顧してみると正教会の頂点としてのウクライナとベラルーシの正教会の信仰が見えてくる。16世紀のブィホヴィエツ年代記や17世紀のフスティンスカ年代記ではアルギルダスは1318年にマリア・ヴィテフスカと結婚する以前に正教会に改宗したと記述している。しかしいくつかの正教会の教会は確かにアルギルダス治世下のヴィリニュスに建てられたものの、アルギルダスの改宗に関する後の主張ではその生活に関する資料から見出せないとし、殆どの学者は偽りであると否定している。同時代の報告にも係らず、現代の学者にも、バチスコフのような何人かのロシアの学者はアルギルダスは正教徒の統治者だったと主張している。 それにも係らず、アルギルダスが正教会に改宗したという伝承は疑わしい。早くも1460年代にアルギルダスの子孫によって書かれたキエフ洞窟修道院の記念本にはアルギルダスには「ドミトリイ」という洗礼名が記載されている。ヴォィチェッツ・ヴィユキ・カヤロヴィッツ、マカリオス1世、ヴラディーミル・アントノヴィチによればアルギルダスは死の直前に修道士の誓いを立て、アレヒウス修道院下のヴィリニュスのテオトコス大聖堂に埋葬された。 アルギルダスはヴィリニュスのアントニイ、イオアン、エウスタティスに死を命じたとされるが、彼等は後に正教会の致命者と褒め称えられた。
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