同時代の報告
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ドイツ人とオーストリア・ハンガリー人外交官たちは1922年に覚書はジョージ・レンデルにより編集された「トルコ人の虐殺と迫害」と題する覚書と同様に、小アジアにおけるギリシア人の一連の民族浄化と組織的虐殺の証拠を提供している。その引用されている証言は多くの外交官、著名人、ドイツ大使ハンス・フライヘル・ヴァンゲンハイム(英語版)やリヒャルト・フォン・クールマン(英語版)、サムスンのドイツの副領事クッホフ(Kuchhoff)、オーストリア大使ヨハン・フォン・パラヴィチーニ(英語版)、オーストリアのサムソン領事エルンスト・クフャトコフスキ(Ernst von Kwiatkowski)、イタリア人の在アンカラ民間職員トーッツィ(Tuozzi)よるものである。その他の引用は聖職者や活動家、著名なドイツ人宣教師ヨハネス・リプシウス(英語版) 、中東救済委員会のスタンリー・ホプキンスなど。ドイツとオーストリア・ハンガリーは第一次世界大戦においてオスマン帝国の同盟国だった。 これらの証言は組織的な虐殺、強姦、ギリシア人村落の焼き討ちを記述しており、オスマン帝国高官たち、即ちマフムード・シェヴケト・パシャ(英語版)、レフェト・ベイ(英語版)、タラート・パシャ、エンヴェル・パシャの意図に帰せられている。 加えて ニューヨーク・タイムズとその特派員はギリシア人村落の炎上や個々の強姦や殺人、強制追放、虐殺、ギリシア正教会の教会や修道院の建造物の破壊、"労働旅団"のための計画書、略奪、テロリズム、その他のギリシア人やアメリカ人及びアメリカ人市民と英国人市民と政府職員に対する虐殺行為を記録する、諸事件の広範なレファレンスを作成した。 オーストラリアの報道も事件を扱ったものがある。 合衆国のトルコ大使(英語版)であるヘンリー・モーゲンソウは、1913年から1916年に在任しており、"トルコ政府"の作戦を非難した。即ち、「恐ろしいテロリズム、残酷な拷問、ハーレムへと女性たちを追い込み、無垢な少女を陵辱し、彼らの多くを80セントで売り払い、数十万人を殺害し、その他数十万人を砂漠に追いやり飢えさえ、[そして]多くの町と数百村落を破壊した」、全部が "意図的処刑" であり、"トルコのシリア人とギリシア人とアルメニア人のキリスト教徒を全滅させる計画"だと非難した。 しかしながら、第一次世界大戦が勃発する数ヶ月前、10万人のギリシア人がギリシアの島嶼やモルゲンソウが主張した内陸部へと追放させられた。モルゲンソウは以下のように主張している、「これらの人々の大部分は真面目に追放された。即ち、ギリシア人住民は実際に新しい場所へと追放されたが、大量虐殺にさらされたわけではなかった。恐らく、文明化された世界がこれらの追放に対して抵抗しなかったことが理由だろう」と述べている」 合衆国総領事ジョージ・ホートン(英語版)も非難している(ただし、彼の評価は反トルコ的なものだとして学者から批判されている) 「トルコのプロパガンダ喧伝者により計算された非常に賢い声明のひとつは、虐殺されたキリスト教徒は処刑されてもやむをえない者たちであり、即ち、50–50である」。この問題における彼のコメントでは、「ポントゥスとスミルナの虐殺後、ギリシア内における全てのトルコ人をギリシア人は虐殺したのだとすれば、その記録はほぼ50–50となるだろう」目撃者の証言として、彼は「猛烈な虐殺が行なわれている間に、ギリシアに住んでいる数千人のトルコ人への(ギリシア人の)行動」を称えもしている。彼の見解によれば、それは「全ての国の歴史におけるもっとも印象的で美しい出来事のひとつ」であった。
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