同時代の史料からとは? わかりやすく解説

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同時代の史料から

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 01:26 UTC 版)

川端道喜」の記事における「同時代の史料から」の解説

「家の鏡」で紹介されている初代川端道喜の記述には、まず文亀永正年間創業し天正末年没したとすると初代道喜は極めて長寿であった考えざるを得ないこと。また鳥羽から移住したとされる新在家成立するのは元亀4年1573年の上京焼討ち以降のことであると見られる等の疑問がある。 同時代の史料としては、まず川端家に伝えられてきた永正9年6月29日1512年8月10日)付の、室町幕府奉公人連署奉書がある。奉書宛先は京餅座であり、前年永正8年1511年)、洛中洛外の餅役に関して幕府から許可得たにも関わらず、座に属さないたちから様々な難渋の儀を掛けられていると訴えたに対して幕府永正8年認可再確認した上で今後難渋の儀を吹っ掛けてくる者たちには厳罰下すとの内容であった。この「室町幕府奉公人連署奉書」には川端道喜関係者であると確認できる人物登場しないが、京餅座に関係する文章川端道喜保管されていたことは、永正8、9当時川端道喜前身が京餅座に関係する業務従事していたと推測されている。 川端道喜前身推定される同時代の史料は、山科言継言継卿記見られる言継卿記天文21年6月13日1552年7月4日)の記録には、正親町町人餅屋四郎左衛門前年6月から腰が立たないという症状訴え、つてを頼って山科言継往診依頼した餅屋四郎左衛門診察した言継は脚気であると判断し7月中旬まで投薬行った続いて永禄6年6月9日1563年6月29日)には、渡辺餅屋後室が言継の投薬体調回復したということで、お礼の品を贈ってきたという記述見られるここから永禄6年までに渡辺四郎左衛門没していたことが判明する永禄7年1564年以降餅屋渡辺彌七郎の名前がしばしば言継卿記登場するうになる渡辺彌七郎は山科言継宅で雑談をしたり碁や将棋楽しんでおり、親し知人同士となっていたと考えられる。「言継卿記」での渡辺彌七郎の最後登場元亀2年12月4日1571年12月20日)のことである。そして川端道喜伝えられている翌元亀3年8月3日1572年9月10日)付の室町幕府奉行人連署奉書には、「鳥羽中五郎左衛門入道道喜」の名が見られるので、元亀2年12月から翌3年8月までの間に渡辺彌七郎(中村五郎左衛門)は出家して道喜を名乗った考えられる。そして山科言継の跡を継いだ山科言経言経卿記には、天正4年1576年以降「道喜、渡辺又七」親子記述確認できる高橋康夫はこの言継卿記言経卿記見られる餅屋渡辺家に関する記述は、川端道喜前身について記録であると判断している。

※この「同時代の史料から」の解説は、「川端道喜」の解説の一部です。
「同時代の史料から」を含む「川端道喜」の記事については、「川端道喜」の概要を参照ください。

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