同時代の史料から
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「家の鏡」で紹介されている初代川端道喜の記述には、まず文亀、永正年間に創業し、天正末年に没したとすると初代道喜は極めて長寿であったと考えざるを得ないこと。また鳥羽から移住したとされる新在家が成立するのは元亀4年(1573年)の上京焼き討ち以降のことであると見られる等の疑問がある。 同時代の史料としては、まず川端家に伝えられてきた永正9年6月29日(1512年8月10日)付の、室町幕府奉公人連署奉書がある。奉書の宛先は京餅座であり、前年(永正8年、1511年)、洛中、洛外の餅役に関して幕府から許可を得たのにも関わらず、座に属さない者たちから様々な難渋の儀を掛けられていると訴えたのに対して、幕府は永正8年の認可を再確認した上で、今後難渋の儀を吹っ掛けてくる者たちには厳罰を下すとの内容であった。この「室町幕府奉公人連署奉書」には川端道喜の関係者であると確認できる人物は登場しないが、京餅座に関係する文章が川端道喜に保管されていたことは、永正8、9年当時、川端道喜の前身が京餅座に関係する業務に従事していたと推測されている。 川端道喜の前身と推定される同時代の史料は、山科言継の言継卿記に見られる。言継卿記の天文21年6月13日(1552年7月4日)の記録には、正親町町人の餅屋四郎左衛門が前年の6月から腰が立たないという症状を訴え、つてを頼って山科言継に往診を依頼した。餅屋四郎左衛門を診察した言継は脚気であると判断し、7月中旬まで投薬を行った。続いて永禄6年6月9日(1563年6月29日)には、渡辺餅屋後室が言継の投薬で体調を回復したということで、お礼の品を贈ってきたという記述が見られる。ここから永禄6年までに渡辺四郎左衛門が没していたことが判明する。 永禄7年(1564年)以降、餅屋の渡辺彌七郎の名前がしばしば言継卿記に登場するようになる。渡辺彌七郎は山科言継宅で雑談をしたり碁や将棋を楽しんでおり、親しい知人同士となっていたと考えられる。「言継卿記」での渡辺彌七郎の最後の登場は元亀2年12月4日(1571年12月20日)のことである。そして川端道喜に伝えられている翌元亀3年8月3日(1572年9月10日)付の室町幕府奉行人連署奉書には、「鳥羽中村五郎左衛門入道道喜」の名が見られるので、元亀2年12月から翌3年の8月までの間に渡辺彌七郎(中村五郎左衛門)は出家して道喜を名乗ったと考えられる。そして山科言継の跡を継いだ山科言経の言経卿記には、天正4年(1576年)以降「道喜、渡辺又七」親子の記述が確認できる。高橋康夫はこの言継卿記、言経卿記に見られる餅屋の渡辺家に関する記述は、川端道喜の前身についての記録であると判断している。
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