高橋康夫の説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 01:26 UTC 版)
高橋康夫は「家の鏡」に記されている初代道喜の事績は、渡辺四郎左衛門と初代道喜(中村五郎左衛門、渡辺彌七郎)の事績が一緒になってしまったものと推定した。そして同時代の史料から川端道喜の創業期を以下のように推定している。 まず15世紀初頭、渡辺四郎左衛門が正親町で餅屋を経営していた。京餅座宛の永正9年(1512年)の室町幕府奉公人連署奉書は渡辺四郎左衛門の餅屋経営に関わるものであると推定され、天文21年(1552年)から永禄6年(1563年)までの間に亡くなった。 渡辺四郎左衛門の跡を継いだのが鳥羽の出身であった中村五郎左衛門であった。中村五郎左衛門は渡辺四郎左衛門に婿入りして渡辺姓となり、渡辺彌七郎を通称名とした。渡辺彌七郎は餅屋経営の傍ら、同じく六町に住む山科言継、言経親子を始め、公家衆や武士たちとも親交を深めていった。元亀2年(1571年)12月から翌元亀3年(1572年)8月までの間に出家して道喜を名乗り、天正20年7月26日(1592年9月2日)に亡くなった。 渡辺彌七郎の子、渡辺又七は父とともに活躍し、慶長13年2月24日(1608年4月9日)に亡くなった。
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