家族と子供たち
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アッシリア王の伝統に倣い、センナケリブはハレムに多くの女性を持っていた。2人の妻の名前がわかっている。一人はタシュメトゥ・シャラト(Tashmetu-sharrat、アッカド語:Tašmetu-šarrat)であり、もう一人はナキア(Naqi'a)である。両者が王妃の地位を持っていたかどうかは不明である。同時代の史料からは、アッシリア王の家族には複数の妻がいたが、ある時点においてただ一人だけが王妃であり第一の配偶者として認識されたことがわかる。センナケリブの碑文では、センナケリブとタシュメトゥ・シャラトの信愛関係が示されており、センナケリブは彼女を「我が愛する妻」と呼びその美しさを公に賞賛している。 ナキアが王妃の地位を保持したことがあるのかどうかは不明である。彼女はエサルハドンの治世においては「王母」と呼ばれている。彼女がエサルハドンの母であったことから、この称号はセンナケリブの治世末期またはエサルハドンによって授与されたものかもしれない。タシュメトゥ・シャラトが長く第一の妻であったが、エサルハドン治世中に果たした役割故にナキアの方が今日より良く知られている。彼女がセンナケリブの妻の一人となった時、彼女はアッカド語の名前ザクトゥ(Zakûtu(ナキアはアラム語の名前である)を名乗った。ナキアが2つの名前を持っていたことは、彼女がアッシリア外部、恐らくはバビロニアかレヴァントの出身であったことを示すものかもしれない。しかしながら、彼女の出身に関する全ての説において、十分な証拠はない。 センナケリブは少なくとも7人の息子と1人の娘を持っていた。ナキアの息子であることがわかっているエサルハドンを除き、それぞれの子供の母がセンナケリブの妻のうち誰であったのかは不明である。タシュメトゥ・シャラトは少なくとも彼らのうちの幾人かの母であった可能性が高い。彼らの名前は以下の通りである。 アッシュル・ナディン・シュミ(アッカド語:Aššur-nādin-šumi):恐らくセンナケリブの長男。前700年にバビロンの王、および王太子に任命され、前694年にエラムに捕らえられ処刑されるまでその地位にあった。 アッシュル・イリ・ムバッリッス(アッカド語:Aššur-ili-muballissu):恐らくセンナケリブの次男(彼はmāru terdennu「次男」と呼ばれている)。「アッシュルの足元で生まれた」という言及がされていることから、彼は神職においてなんらかの役割を果たしていたものと思われる。センナケリブは恐らく前700年以前のある時点で彼にアッシュル市に家を与えた。後世、ニネヴェの発掘で貴重な壺(vase)が発掘されている。 アルダ・ムリッシ:(アッカド語:Arda-Mulišši):前694年にアッシュル・ナディン・シュミが死亡した時、センナケリブの存命中の最年長の息子であった。前694年から王太子の地位にあり、前684年に理由は不明であるが、王太子の座がエサルハドンに移された。王位を自分のものとすべくセンナケリブを殺害した前681年の陰謀を画策した。彼の軍隊がエサルハドンに敗れた後、ウラルトゥへと逃亡し、そこで前673年まで存命していた可能性がある。 アッシュル・シュム・ウシャブシ(アッカド語:Aššur-šumu-ušabši):センナケリブの息子。他の兄弟との誕生順は不明である。彼はセンナケリブによってニネヴェに家を与えられている。この家の建設について述べている碑文が後世、ニネヴェで発見されている。この碑文の内容から、アッシュル・シュム・ウシャブシはこの家の建設が完了する前に死亡したものと考えられている。 エサルハドン(アッカド語:Aššur-aḫa-iddina):前684年から前681年までセンナケリブの王太子の座にあった年少の息子。その後、彼はアッシリア王位を継承し前681年から前669年まで在位した。 ネルガル・シュム・イブニ(アッカド語:Nergal-šumu-ibni):センナケリブの別の息子。彼のフルネームが碑文に無いため、この名前は復元されたものである。彼はサマ(Sama)という名前の個人的な飼育係(horse raiser)を含む大勢の職員を雇ったことが言及されている。また、前683年に情報官として言及されている人物であるかもしれない。彼の名前はあるいはネルガル・シュム・ウツル(Nergal-šumu-uṣur)と復元されるかもしれない。 ナブー・シャル・ウツル(アッカド語:Nabû-šarru-uṣur):アルダ・ムリッシのセンナケリブ殺害と簒奪に加担した年若い弟。アルダ・ムリッシと共にウラルトゥへ逃亡した。そこで前673年まで存命していた可能性がある。 シャッディトゥ(アッカド語:Šadditu):センナケリブの娘の中で名前がわかっている唯一の人物。土地売却文書に登場しており、彼女のために保護の儀式が執り行われた。エサルハドン治世中も王族としての地位を維持していたことから、彼女は恐らくナキアの娘であったと見られる。彼女か、あるいは別の姉妹が前672年にシュシャンク(Shushanqu)と呼ばれるエジプトの貴族と結婚した。 ギルガメシュのようなメソポタミアの神話的英雄といくつかの個人名をリストした小さな粘土板がニネヴェから発見されている。このリストにアッシュル・イリ・ムバッリッスが登場し、またアッシュル・ナディン・シュミ(またはアッシュル・シュム・ウシャブシ)と復元可能と思われる断片的な名前が一緒に登場していることから、一緒に掲載されている他の個人名がセンナケリブの他の息子たちであった可能性がある。掲載されている名前にはIle''e-bullutu-Aššur、アッシュル・ムカニシュ・イリヤ(Aššur-mukkaniš-ilija)、アナ・アッシュル・タクラク(Ana-Aššur-taklak)、アッシュル・バニ・ベリ(Aššur-bani-beli)、サマシュ・アンドゥラシュ(Samaš-andullašu)またはサマシュ・サラムシュ(Samaš-salamšu)、アッシュル・シャキン・リティ(Aššur-šakin-liti)がある。
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家族と子供たち
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「アッシュルバニパル」の記事における「家族と子供たち」の解説
アッシュルバニパルの王妃の名はリッバリ・シャラト(アッカド語:Libbali-šarrat)である。彼女についてはあまりよくわかっていないが、アッシュルバニパルが王となった時には既に結婚していた。結婚の時期は前673年頃、エサルハドンの妻エシャラ・ハンマト(Esharra-hammat)が死亡した頃のことであったとも考えられる。 3人のアッシュルバニパルの子供の名前がわかっている アッシュル・エティル・イラニ(アッカド語:Aššur-etil-ilāni):前631年から前627年までアッシリア王として統治した。 シン・シャル・イシュクン(アッカド語:Sîn-šar-iškun):前627年から前612年までアッシリア王として統治した。 ニヌルタ・シャル・ウツル(アッカド語:Ninurta-šarru-uṣur):下位の王妃(リッバリ・シャラトではない)の息子。政治的な役割は果たしていなかったと思われる。 シン・シャル・イシュクンの碑文では、彼は「同等者たち(例えば兄弟など)の中から」王権に選ばれたと述べている。これはアッシュルバニパルには上記の3人のほかにもさらに別の息子たちがいたことを示している。 アッシリアが前612年から前609年にかけて滅亡した後、アッシュルバニパルの血脈はメソポタミアの権力の座に舞い戻った可能性もある。新バビロニア最後の王ナボニドゥス(在位:前556年-前539年)の母はハッラーン出身であり、アッシリア人の祖先を持っていた。この女性、アッダゴッペ(英語版)は、彼女自身の碑文によればアッシュルバニパルの統治第20年(前648年、アッシュルバニパルが通年で王であった最初の年を起点とする)に生まれたという。イギリスの学者ステファニー・ダリーは、ナボニドゥスがアッシュルバニパルの系譜に連なるという彼女の碑文の主張に基づいて、「ほぼ確実に」アッダゴッペがアッシュルバニパルの娘であったと考えている。アメリカの聖書研究者マイケル・B・ディック(Michael B. Dick)はこれに反論し、ナボニドゥスはかなりの期間をかけて古いアッシリアのシンボルを復活させ(例えば、彼は自分自身の姿を外套にくるまれた姿で描かせている。このような描写は他の新バビロニア王のものには存在しないが、アッシリアの芸術作品には登場する)、アッシリアのサルゴン王朝と自分自身を関連付けようとしてはいるものの、「ナボニドゥスがサルゴン王朝と関係があったという何らの証拠も存在しない」と述べている。
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