家族と子孫について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/07 14:57 UTC 版)
福岡家の言い伝えや年齢等から推定すると、新左衛門の父は福岡新兵衛の弟、福岡新左衛門と思われるが証拠はない。砂村の姓は越前の福井藩主松平忠昌から賜った可能性があるが、これも証拠はない。 妻はいたが、嫡子が生まれ育ったという記録はない。三国に妾がいて(三国を出るとき、そこの事業を任せた)倅がいたという言い伝えがある。砂畑の出身であることや妾の倅のことは福井藩の非公式代々記である「片聾記」に記載されている。 兄弟としてはっきり記録に残るのは三郎兵衛と新右衛門の二人である(正業寺過去帳)。三郎兵衛は上福島の新田を任され子孫(太兵衛家)も上福島に続いたものと推定される。新右衛門は砂村新田で亡くなったが、妻帯していたという記録がなく子孫はいない。 新左衛門の指導の下、砂村新田を開拓した新四郎および内川新田を開拓した新三郎の二人と新左衛門の関係について明確な記録はない。新三郎は隠居して三郎兵衛を名乗っていることから三郎兵衛の子であると思われるが、新四郎に関しては手掛かりがない(三郎兵衛の庶子、新左衛門の末弟、新左衛門の庶子またはその夫などの候補はあるが)。。 新左衛門の遺産(主として砂村新田と内川新田)を平等に相続した新四郎、新三郎はそれぞれ二代目であり、新左衛門の養子であったと推定される。二代目新四郎、新三郎は内川新田で二組の名主となって代々続いた。後に新四郎家は浦賀の宮井家(与兵衛)に買収され、新三郎家は善六という者が砂村家を継いだ。砂村新田では新四郎家傍系の金三郎家が、上福島では三郎兵衛の子孫である太兵衛家がそれぞれ明治維新まで代々名主を務めた。
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