家族と子供
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エサルハドンには少なくとも18人の子供がいた。幾人かの子供はエサルハドンと同じく慢性的な病に苦しんでおり、侍医たちの恒常的かつ定期的な医学的配慮が必要であった。エサルハドンの臣下が王の「多くの子供たち」について議論している同時代の手紙から、エサルハドンの家族はアッシリアの常識に照らしても数が多かったことが確認できる。名前が判明しているエサルハドンの子供たちは次の通りである。 シェルア・エテラト(アッカド語:Šeru’a-eṭirat):エサルハドンの長女であり娘たちの中で名前が判明しているただ一人の人物。彼女はアッシュルバニパルより年長であり、恐らくはエサルハドンの全ての子供たちの中でも最年長であった。彼女はエサルハドンの宮廷とアッシュルバニパルの宮廷で重要な地位にあったことが多数の碑文によって証明されている。 シン・ナディン・アプリ(アッカド語:Sîn-nadin-apli):エサルハドンの長男であり前674年から急死する前672年まで王太子であった。 シャマシュ・シュム・ウキン(Šamaš-šumu-ukin):エサルハドンの次男。バビロンの王太子(前672年-前669年)とされ、その後バビロン王位を継いだ。 シャマシュ・メトゥ・ウバリト(アッカド語:Šamaš-metu-uballiṭ):恐らくエサルハドンの三男。彼の名前は「シャマシュは死者を蘇らせた」という意味であり、彼が健康に恵まれず苦しんでいたか、あるいは出生時に難産であったことを示す。彼は前672年まで存命していたが、恐らく健康上の問題故に彼は後継者としては無視され弟が選ばれた。シャマシュ・メトゥ・ウバリトがアッシュルバニパルの即位を支持せず、その代価を命をもって支払った可能性もある。 アッシュルバニパル(アッカド語:Aššur-bāni-apli):恐らくエサルハドンの四男:アッシリアの王太子(前672年-前669年)とされ、その後アッシリア王となった。 アッシュル・タキシャ・リブルト(アッカド語:Aššur-taqiša-libluṭ):恐らくエサルハドンの五男:病弱な子供であったと考えられており、前672年までには死亡していたと考えられる。 アッシュル・ムキン・パレヤ(アッカド語:Aššur-mukin-pale’a):恐らくエサルハドンの六男。出生時にはエサルハドンは既に王だったと見られる。アッシュルバニパルの治世中、アッシュル市の神官となった。 アッシュル・エテル・シャメ・エルセティ・ムバッリッス(アッカド語:Aššur-etel-šamê-erṣeti-muballissu):恐らくエサルハドンの七男。エサルハドンの即位後に生まれたと見られる。アッシュルバニパルの治世中にハッラーンの神官となった。 アッシュル・シャラニ・ムバッリッス(アッカド語:Aššur-šarrani-muballissu):1通の手紙によってのみ存在が確認されている。アッシュル・シャルラニ・ムバッリッスとアッシュル・エテル・シャメ・エルセティ・ムバッリッスは同一人物であった可能性がある。 シン・ペル・ウキン(アッカド語:Sîn-per’u-ukin):王の下を訪れるべき時期の問い合わせの手紙と、彼が健康であると説明するほかの手紙から存在が知られている。 エサルハドンに複数の妻がいたことは碑文群から確認することができ、彼が制定させた継承条約において「アッシュルバニパルの母から生まれた息子たち」と「残りのエサルハドンの息子たち」を区別している。妻たちの中で名前がわかっているのはエシャラ・ハンマト(Esharra-hammat)だけである。エシャラ・ハンマトは主として彼女の死後の史料、特にエサルハドンが彼女のために作らせた霊廟(mausoleum)に関する史料から知られている。彼女は恐らく、エサルハドンの正妃(the primary wife)であり、「彼の王妃」という表現で呼ばれている人物であった。エサルハドンの多くの子供たちのうち誰が彼女の子供であったのかは不明である。
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家族と子供
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サルゴン2世の父親とされるティグラト・ピレセル3世および兄とされるシャルマネセル5世との関係は完全には解明されていないが、サルゴン2世にはシン・アフ・ウツル(Sîn-ahu-usur)という弟がいたことは確かである。彼は前714年までサルゴン2世の王宮騎兵護衛隊の指揮を執り、ドゥル・シャルキンに自身の住居を置いていた。もしサルゴン2世がティグラト・ピレセル3世の息子であるならば、サルゴン2世の母親はティグラト・ピレセル3世の第1夫人イアバ(ドイツ語版)であったかもしれない。ティグラト・ピレセル3世が王位に就いた頃、サルゴン2世はライマ(Ra'īmâ)という名前の女性と結婚した。彼女は少なくともサルゴン2世の最初の3人の子供の母親である。彼にはまた第2夫人アタリア(Atalia)がいた。彼女の墓は1980年代にカルフで発見されている。現在知られているサルゴン2世の子供たちは以下の通りである。 サルゴン2世とライマの間に生まれた長男と次男(名前不明)。センナケリブが生まれる前に死亡した。 センナケリブ(アッカド語:シン・アヘ・エリバ / Sîn-ahhī-erība):サルゴン2世とライマの息子であり、サルゴン2世の跡を継いでアッシリア王となる。在位:前705年-前681年。 アハト・アビシャ(アッカド語:Ahat-abiša):サルゴン2世の娘。タバルの王アンバリス(Ambaris)と結婚した。前713年に行われたサルゴン2世の最初のタバルでの遠征でアンバリスが廃位された際、アハト・アビシャは恐らくアッシリアに帰国することを余儀なくされた。 他に少なくとも2人のより若い息子(名前不明)
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