家族と初期の生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 16:57 UTC 版)
「キヨシ・クロミヤ」の記事における「家族と初期の生活」の解説
1943年5月9日、ワイオミング州のハートマウンテン移住センター日系人移住キャンプにて、日系アメリカ人の3世として生まれる。第二次世界大戦中、他の日系アメリカ人と共に家族で収容されていた。戦争終了後、一家は1年間オハイオ州に移り住み、その後カリフォルニア州モンロビアに落ち着くことになる。 カリフォルニアに住んでいた8〜9歳の頃には、男性に惹かれていることに気がついたと告白している。しかし当時、彼はゲイという言葉を聞いたことがなく、ホモセクシャルが何であるかを知らなかった。10歳のとき、公園で16歳の少年と一緒にいるところを警察に見つかり、「淫らで不道徳な生活を送る危険性がある」と警告されたことをきっかけに、クロミヤは両親に同性愛者であることをカミングアウトした。その罰として、少年院に3日間収監され、さらに裁判所から腺病質専門医によるホルモン治療を受けるようにとの命令が出された。しかし、クロミヤは「何をされているのかよくわからないということもあって、トラウマになった」という。クロミヤは、この治療で性欲が増すと警告されていたことから、この「男性」ホルモンの注入は、転換療法の初期の試みであったと推測される。性欲が高まり、声が出なくなっただけでなく、羞恥心と倒錯感が残る事件だった。このときの逮捕によって、自分が一種の犯罪者であると無意識に自覚するとともに、性的な羞恥心も感じはじめ、性的行為について公言を避けるようになったと述懐している。 1961年9月にベンジャミンフランクリン国費奨学金を受けて、フィラデルフィアにあるペンシルベニア大学に進学する。奨学金は、在学に必要なほとんどの費用のカバーできるほどの充実したもので、1500人の新入生の中で6人しか選抜されない狭き門だった。フィラデルフィアに移住した動機については、「兄弟愛の都市」という名前のみに基づいていると述べている。 大学ではデザイン学部の建築学の教授であったルイス・カーンに影響を受け、建築が人文科学の諸分野を包括する分野であると感じ、建築を学ぶことを決意した。しかし授業にはほとんど出席せず、「時間の無駄」「高校時代の教養に劣る」と考えていた。その代わり、フィラデルフィアのレストランを紹介するガイドブックを制作・出版し、その売り上げでかなりの収入を得ることができた。
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