家族と出身部族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/04 21:03 UTC 版)
「サーリフ・ブン・ミルダース」の記事における「家族と出身部族」の解説
「キラーブ族(英語版)」も参照 サーリフ・ブン・ミルダースの生年は不明である。サーリフの両親はキラーブ族(英語版)のベドウィン(アラブ遊牧民)の名家に属していた。サーリフの父はキラーブ族の有力氏族であるアブドゥッラー・ブン・アブー・バクルの支流のラビーア・ブン・カアブの系統に属するミルダース・ブン・イドリースである。ミルダース・ブン・イドリースについて他に知られていることは何もない。サーリフの母親のラバーブ・アッ=ザウカリーヤは、アレッポ周辺に居住していた、同じくキラーブ族の有力氏族であるザウカル氏族に属していた。サーリフには少なくとも3人の兄弟がいたが、史料において名前が確認できるのはカーリム一人のみである。また、息子は少なくとも4人おり、ナスル(英語版)(1038年没)、スィマール(英語版)(1062年没)、アティーヤ(英語版)(1071年もしくは1072年没)、および名前の知られていない最年少の一人(1029年没)である。 サーリフの家族はアレッポの南西に位置するキンナスリーン(英語版)(古代のカルキス)に住み、その町を治めていた。10世紀から11世紀にかけてのアレッポのほとんどのイスラーム教徒と同様に、キラーブ族はシーア派の一派である十二イマーム派の信仰を受け入れていた。キラーブ族の人々が自らの信仰にどの程度強い共感を抱いていたのかは明らかではないが、サーリフのクンヤ(アラブ人の人名における子称、添え名として用いられる場合もある)であるアブー・アリー(アリーの父)は、シーア派の教義における中心人物であるアリー・ブン・アビー・ターリブへの敬意を表している。 キラーブ族は上位の大部族であるアーミル族(英語版)の主要な構成部族であり、7世紀のイスラーム教徒の征服活動中にアラビア中央部からシリアへ最も早く移住してきた部族である。キラーブ族はすぐに部族連合のカイス族(英語版)の中核をなす部族となり、ジャズィーラ(メソポタミア北部)とアレッポ周辺の草原地帯に拠点を築き、それ以降これらの土地はディヤール(部族の領地)となった。居住する領域を統治し、秩序を維持するための一貫した努力と軍事力を通して、キラーブ族はその後の数世紀にわたってシリア北部で強力な勢力として存続した。その後、侵入するカルマト派の軍隊の兵士としてアレッポ周辺に向かうキラーブ族の別の移住者の波が932年から933年にかけて発生した。歴史家のスハイル・ザッカールは、この新しい移住者の到来は「ミルダース朝の成立と台頭への道を開いた」と指摘している。この頃までにキラーブ族はシリア北部における支配的な部族としての地位を確立し、945年から1002年の間にアレッポのハムダーン朝の支配者を巻き込んだすべての蜂起と内戦で重要な役割を担った。
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