家族と出自
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:22 UTC 版)
「マルクス・アウレリウス・アントニヌス」の記事における「家族と出自」の解説
マルクス・アウレリウス・アントニヌスこと、マルクス・アンニウス・カティリウス・セウェルスは、貴族マルクス・アンニウス・ウェルス3世の子としてローマに生まれた。 父方の一族であるウェルス家は属州ヒスパニア・バエティカのコルドバに所領を持ち、西暦1世紀頃からローマ中央でも知られた存在にまで台頭し始めた。曽祖父アンニウス・ウェルス1世が元老院議員として議席を与えられ、祖父のウェルス2世の代で貴族に列された。アンニウス・ウェルス3世はドミティア・ルキッラと結婚してカティリウス・セウェルス(アウレリウス)という子を儲けた 両親には二人の子供がおり、アウレリウス以外にコルニフィキアという姉がいた。ドミティア・ルキッラは、有力貴族のカルビシウス・トゥルス・ルッソの子であり、また母の大ドミティアも親族の財産を相続した資産家であった(この事はガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥスの書簡にも書き残されている)。彼女は後に煉瓦生産の工房など、両親の財産を相続してウェルス家を更に富ませた。 父であるウェルス3世も元老院で法務官などの要職を歴任していたが、アウレリウスが3歳の時に病没した。従って後の皇帝としての方針に父の影響がどの程度あったのかは不明であるが、彼自身は「自省録」で彼が「謙虚と剛毅さ」を父の思い出と死後の話で学び知ったと語っている。母ドミティアは再婚しなかったが、当時の貴族階級にとっての常として子供の養育は家庭教師や侍従達に任せていた。一方で貴族としての優雅な生活で堕落しないように「宗教的な敬虔さ」と「粗食」を躾として教えられたという。アウレリウスは母親についての感謝を述べる手紙を書き残している。 父の死後、アウレリウスは祖父ウェルス2世に引き取られ、ルキウス・カティリウス・セウェルスという男性が養育を手伝った。ルキウス・カティリウスは「母方の曾祖父」と言われ、恐らくは大ドルシッラの継父であったと見られている。アウレリウスは彼の両親が残したカエリウスの丘にある邸宅で過ごし、そこは僅かな公共施設を除けば殆どが貴族の別荘からなる高級住宅街であった。また祖父はラテラノ大聖堂の近くに邸宅を持ち、アウレリウスにとって馴染み深い場所となった。祖父の教育については「良心と自制心」を教わったと書き残しているが、祖父が祖母の死後に連れてきた妾とは折り合いが悪かったという 幸いにして妾が出入りするようになって直に家から出られた事を、アウレリウスは幸運だったと述べている。 アウレリウスは当時の貴族階級の常として、家庭教師による教育を受けている。これは曽祖父カティリウス・セウェルスの意向によるところだったとアウレリウス自身が述べている。ディオゲネトゥスという教師から特に深い影響を受け、哲学的な生活様式を学んだ。132年4月、アウレリウスはディオゲネトゥスと同じ哲学者風の衣服で過ごし始め、母親から窘められるまでベッドではなく地面で寝ていたという。133年からはアレクザンデルという人物が何人かの教師と共に赴任した。アレクサンデルは当時のローマ帝国で、ホメロスの研究によって知られた文学者であった。アウレリウスは彼から修辞法を学んでおり、「自省録」の文体にその影響が見られる。
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