ミラノからの移動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:33 UTC 版)
「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「ミラノからの移動」の解説
ムッソリーニがスイスとの国境に近いミラノを離れ、死を迎えるまでの経緯については謎が多く、今でも諸説が存在する状態になっている。ミラノから試みた経緯や目的地に加えて、拘束から処刑に至るまでのムッソリーニの動向については資料や証言によって一定していないためである。この点において盟友であり自決までの経過が不明瞭であるアドルフ・ヒトラーと軌を一にしており(アドルフ・ヒトラーの死)、現在でも歴史学者の間で議論が続けられている(ベニート・ムッソリーニの死)。 主流の説として、スペインへ家族と子供達を亡命させていたことからムッソリーニもスイスに向かい、そこから中立国でヨーロッパで唯一ファシスト政権が継続しているスペインへ向かう計画であったとされているが、否定的な意見も多い。ムッソリーニ自身は最初から亡命を拒絶する発言をしており、次男ヴィットーリオ・ムッソリーニが同様の提案をした際には「馬鹿な話を言うな!俺がイタリアを去ることはない。部下を見捨てることはない。ローマを捨てた国王と同じ非難を受けるつもりもない」と一蹴している。日本から亡命を進める提案があった際にも「申し出はありがたいが、私はイタリアで生涯を終えたい」と丁重に辞退している。 1945年4月25日、CLNとの会談が決裂した日の夜にムッソリーニはヴァルテリーナへの移動を決定し、移動可能な者に対して集合地としてスイスとの国境に面したコモ湖付近へ向かう命令を出した。自身も機関銃を手にミラノから黒色旅団1個小隊を連れて向かい、ムッソリーニの護衛をヒトラーから命じられていたナチス親衛隊の隊員達も同行した。国防大臣ロドルフォ・グラツィアーニ陸軍元帥RSI政府の閣僚やニコラ・ボムバッチらムッソリーニの側近、次男ヴィットーリオも同行した他、ローマ教皇庁の職員の娘であるクラレッタ・ペタッチもコモ湖に同行すると申し出た。彼女はムッソリーニにとって数多く居る愛人の一人であるに過ぎなかったが、後妻のラケーレ以上にRSI時代のムッソリーニを献身的に支え、心を通わせていた。 事前の予測通り、ミラノに住む党員や兵士の多くは家族を守るために連合軍の手に渡りつつあるミラノに残ることを選んだが、ムッソリーニが彼らを責めることはせず離脱を許可した。移動する前にミラノの市庁舎前で党員や兵士に最後の別れを告げると、傷痍軍人から「ドゥーチェ!出発するな!我々と共にミラノに残れ!我々が貴方を守る!」との声が上がった。一方、共和ファシスト党書記長アレッサンドロ・パヴォリーニはヴァルテリーナ防衛を志願した黒色旅団の隊員を掻き集め、最終的に3000名以上の隊員を集めてコモ湖へ向かった。
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