ミラノ、ナポリでの活動
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1438年、ミラノの統治者フィリッポ・マリーア・ヴィスコンティとヴェネツィア共和国の間に戦役が発生した。当時ピサネロはマントヴァのジャンフランチェスコ・ゴンザーガのもとにいた。彼らはヴェネツィア共和国の支配下にあったヴェローナ攻略を画策した。この結果、ヴェネツィア共和国政府はピサネロを反逆者と見なし、重罪を宣告しようとしたが、ある有力な友人のとりなしで事無きをえた。 彼は1440年から1441年にかけてミラノに滞在した後、1441年にフェラーラに戻り、そこで『レオネッロ・デステの肖像』(ベルガモ、アカデミア・カッラーラ蔵)を制作した。『聖母子と聖アントニウスと聖ゲオルギウス』もおそらくこの時期の作である。マントヴァのパラッツォ・ドゥカーレにある印象的なフレスコの『騎馬戦闘図』は1447年以後のものである。 1448年12月以降の晩年を彼はナポリで過ごした。彼はアラゴン王の統治するナポリで著名人として遇され、詩人ポルチェリオ(ジャンアントニオ・ディ・パンドーニ)は彼を称えるオードを作った。その後彼は5-6年生きたようだが、以後彼に関する記録はとだえている。 彼の現存する作品は主にヴェローナとマントヴァにある。ロンドンのナショナル・ギャラリーには2点の作品(『聖エウスタキウスの幻視』『聖母子と聖アントニウスと聖ゲオルギウス』)がある。素描の多くはミラノのアンブロジアーナ図書館とパリのルーヴル美術館にある。 彼は同時代の画家たちに大きな影響を与えたが、自分自身の画派を形成しなかった。彼の才能は短期間に発揮されたが、人文主義的、古典的なルネサンス文化の勃興とともに、死後急速に忘れられていった。彼は国際ゴシック様式(1400年代の宮廷風のゴシック様式)の最後のそして最も重要な画家と見なされているとともに、ルネサンス絵画の最初のリーダーの一人とも見なされている。彼の様式は時代を先取りするもので、描く風景は真に迫り、彼の制作したメダルは時代を超えたものであった。しかし、傑作の一つとされる『聖ゲオルギウスと王女』は彼の作品中、最も古風な画風を示すものである。
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