センナケリブの息子とは? わかりやすく解説

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センナケリブの息子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 19:41 UTC 版)

アルダ・ムリッシ」の記事における「センナケリブの息子」の解説

アルダ・ムリッシ新アッシリア時代の王センナケリブ在位:前705年-前681年)の息子である。センナケリブには2人上の妻がおり、アルダ・ムリッシ母親そのうちの誰なのかについては不明である。しかし彼の母親が弟エサルハドンの母ナキアではなかったことは確かである。前700年センナケリブ長男であるアッシュル・ナディン・シュミ王太子相続人)に任命しバビロニア帝国南部属州)の支配任せていた。この地位アッシュル・ナディン・シュミ任じたすぐ後、センナケリブ反乱起こして逃亡したカルデア人追跡してエラム現在の南部イラン)に遠征行った領内への侵入対しエラム人は前694年アッシリア支配下バビロニア侵攻しアッシュル・ナディン・シュミシッパル市で捕らえた。彼はエラムへと連れ去られ、恐らく処刑された。 息子たちの中から新たな王太子任命する必要に迫られセンナケリブ存命中の王子の中で最年長であったアルダ・ムリッシ王太子とした。一方アッシリア学者シモ・パルポラ(英語版)とセオドア・クワズマン(英語版)は別の仮説立てアッシュル・ナディン・シュミセンナケリブからバビロニアのみを継承することを意図されており、アルダ・ムリッシは恐らく既に前698年という非常に早い時期王太子任命されていた可能性があるとしている。ただし、アッシュル・ナディン・シュミ捕らえられ恐らく殺害された前694年以前において、アルダ・ムリッシ王太子表現する記録は見つかっていない。 クワズマンとパルポラはまた、センナケリブが恐らく別の息子、ネルガル・シュム・イブニ(英語版)をアッシュル・ナディン・シュミ死後バビロニア王太子としたとも主張している。ネルガル・シュム・イブニは恐らくアルダ・ムリッシアッシリア王太子となった後もバビロニア王太子務めていた。これを証明するような現存史料はないが、クワズマンとパルポラはネルガル・シュム・イブニをmār šarri、Mār šarri称する694年と前693年一連の約定(contracts)に基づいてこの説をたてた。この称号は文字通りには「王の息子」を意味する。これは彼が王子であることに合致するが、この称号通常王太子のみに使用される称号として使われていた。 アルダ・ムリッシ少なくとも10年わたって王位継承者地位にあったが、前684年彼に代わって弟のエサルハドン王位継承者任じられた。アルダ・ムリッシ突如地位追われ理由不明であるが、彼が大きな失望を胸に抱いたことは同時代文書から明らかである。解任されにも関わらずアルダ・ムリッシ人望維持しており、幾人かの臣下たちが彼を王位継承者として密かに支持していた。エサルハドン自身文書には「私は歳若かったが、我が父、余を生み出せし彼は、神々の命により正しく余を選び、他の兄弟たちに「この者が我が後継者なり」と言った」とあり、年長息子王位継承者地位から降ろし弟をその地位に置くことは異常な決定であったことが確認できる

※この「センナケリブの息子」の解説は、「アルダ・ムリッシ」の解説の一部です。
「センナケリブの息子」を含む「アルダ・ムリッシ」の記事については、「アルダ・ムリッシ」の概要を参照ください。

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