新アッシリア時代
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新アッシリア帝国(前912年-前605年)とも呼ばれるアッシリアの極勢期における王の住居は、他のアッシリアの都市へと遷された。アッシュル・ナツィルパル2世(アッシュル・ナツィル・アプリ2世、在位:前884年-前859年)は、一連の軍事遠征の成功に続き、首都をアッシュル市からカルフ(Kalhu/Calah、ニムルド)に移転した。そして巨大なラマス(英語版)像や、王宮と戦争を描いた浅浮彫(low-relief)からなる偉大な作品群を制作した。サルゴン2世(シャルキン2世、在位:前722年-前705年)の治世とともに新たな首都が立ち上がった。ドゥル・シャルキン(「サルゴンの要塞」の意)がそれであり、アッシュル・ナツィルパル2世の首都ニムルドを凌駕する規模で設計された。しかし、彼が戦死すると、息子で後継者のセンナケリブ(シン・アヘ・エリバ、在位:前705年-前682年)はドゥル・シャルキンを放棄し、ニネヴェを彼の王宮として拡張することを選択した。それでも、アッシュル市は帝国の宗教的中心であり続け、国家神アッシュルの神殿の存在故に、帝国の聖なる王冠として尊敬を受け続けた。センナケリブの治世中に、アキトゥ(Akitu、「新年の家」)が建設され、新年祭がこの都市で祝われた。多くの王たちがアッシュルの「古い宮殿」に埋葬されたが、サルゴン2世の妻アタリヤ(Ataliya)のような幾人かの王妃は他の首都に埋葬された。 アッシュル市は前612年にメディア人とバビロニア人(新バビロニア)の連合軍によって占領(英語版)された際に略奪され大きく破壊された。
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新アッシリア時代
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新アッシリア帝国 ← 前934年 - 前609年 → → → → アッシリアの版図の変遷 公用語アッカド語、アラム語 首都アッシュール、カルフ、ドゥル・シャルキン、ニネヴェ 君主 前934年 - 前912年アッシュール・ダン2世 前722年 - 前705年サルゴン2世 前668年 - 前627年アッシュールバニパル 前612年 - 前609年アッシュール・ウバリト2世(最後) 変遷 不明xxxx年xx月xx日 滅亡前609年 詳細は「新アッシリア帝国」を参照 アッシリアが全オリエント世界を支配する初の帝国を打ち立てるのがこの時代である。この時代は古代オリエント史において最も記録史料が豊富な時代であり、詳細な政治史の復元が可能である。占星術などの記録が豊富に残っており、天文学的見地から非常に正確な年代確定が可能であるほか、アッシリア王名表、リンム表(概要を参照)、アッシリア・バビロニア関係史に代表される年代誌、各種行政文書、法律文書、条約、記念碑文などが分野の偏りがあるものの大量に残存している。アッシュール・ダン2世・アダド・ニラリ2世等によって中アッシリア時代後期の混乱が収められた後、アッシリアの王達は盛んに遠征を行い、次々と領土を拡大していた。いわゆるアッシリア帝国と呼ばれる時代に入るのはティグラト・ピレセル3世の時代である。彼はバビロニアやヘブライ人の記録でプル(Pul)と呼ばれた(シリア・エフライム戦争、バビロニア遠征(フランス語版))。被征服者であるバビロニア人やヘブライ人から憎まれてこの蔑称で記録されたとされる。 アッシリアはこの帝国を維持するために各種の方策を講じた。最も有名なものの一つが大量捕囚政策としてしられる被征服民の強制移住である。強制移住自体はオリエント世界に広く見られた手段であるが、アッシリアのそれはその組織性と規模において史上例を見ないものである。特にティグラト・ピレセル3世の治世以降は、急激に拡大した領土での反乱防止と職人の確保を目的としてたびたび行われた。 後世にはこうした力による強圧的な統治がよく伝えられ、アッシリアの支配を特徴付けるものと言われてきたが、アッシリアの帝国統治は単純に武力によって行われただけでなく、征服地や服属地域の文化や言語、宗教や政治体制に関する情報を詳細に収集し、それに基づく飴と鞭を使い分けた対応をとったことが同時代記録の分析から明らかになっている。こうした異文化情報の集積による帝国統治の手法は、アッシリア以降に登場した新バビロニア王国やアケメネス朝ペルシアのような広域統治を行った帝国に継承され、その統治技術の基礎となったと考えられている。 またその国家は、本国たるアッシュルの地と周辺の征服地域は強く区別された。本国は、中アッシリア時代より拡大していたが、神格化された国土アッシュール神という宗教イデオロギーで結びついていた。各征服地がどのように統治されたのかについては地域差があり、また学者の間でも議論のある所である。バビロニアの扱いは別格であり、アッシリア王がバビロニア王を兼任する場合や、バビロニアに代理王を置く場合などがあった。これらを、高度に発達した官僚制度が支えていた。ティグラト・ピレセル3世の治世からアッシュールバニパルの治世までの100年あまりの間にアッシリアは歴史上空前の政治的統合体を作り上げることになる。 この時代のアッシリア政治史における重要案件はバビロニア問題であった。ティグラト・ピレセル3世がバビロニアを完全征服して以降も、事あるごとにエラム(フンバンタラ朝(ロシア語版))の支援を受けたバビロニアが反乱を起こし、その統治はアッシリア王達の頭痛の種であり続けた。ティグラト・ピレセル3世以降、バビロニアの反乱に直面しなかった王はほとんどいない。紀元前722年にシャルマネセル5世がイスラエル王国へ侵攻し占領したが、直後に死去。サルゴン2世は即位直後にバビロニアに離反され、ウラルトゥ・アッシリア戦争やバビロニア再征服が続く中で死去し、センナケリブが後を継いだ。エサルハドンの時代にはエジプトにまでその領域が広がり、紀元前671年に全オリエント世界を初めて統一した。この時代のシリアにおけるアッシリアの行動はヘブライ人達によって旧約聖書に記録されている。アッシュールバニパルがエラムを滅亡(スサの戦い(英語版)、en:Fall of Elam)させたものの、アッシュールバニパル治世後半からこうした巨大帝国も急激に衰退し、彼の死後20年あまりでアッシリアは滅亡してしまう。この衰退の原因が何であるのかは分かっていないが、王家の内紛や広大な領土・多様な被征服民族を統治するシステムの構造的な問題が噴出したものとも考えられている。北方からスキタイ等の外敵に圧迫され、領内では各所で続発する反乱を抑える事が出来なくなっていき、紀元前625年には新バビロニアが独立してその勢いはさらに増した。紀元前612年に新バビロニアやメディアの攻撃を受けて首都ニネヴェが陥落した(ニネヴェの戦い)。 亡命政権がハランに誕生し、アッシュール・ウバリト2世が即位、エジプト王ネコ2世と同盟を結んで新バビロニアと抗戦するも紀元前609年にはこれも崩壊し、アッシリアは滅亡した。だが、アッシリアに続く新バビロニアやメディア、アケメネス朝ペルシアはアッシリアの行政機構の多くを取り入れた。
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