新アッシリア時代とは? わかりやすく解説

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新アッシリア時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 22:57 UTC 版)

アッシュル」の記事における「新アッシリア時代」の解説

新アッシリア帝国(前912年-前605年)とも呼ばれるアッシリア期における王の住居は、他のアッシリア都市へと遷された。アッシュル・ナツィルパル2世(アッシュル・ナツィル・アプリ2世在位:前884年-前859年)は、一連の軍事遠征成功続き首都アッシュル市からカルフ(Kalhu/Calah、ニムルド)に移転した。そして巨大なラマス英語版)像や、王宮戦争描いた浮彫(low-relief)からなる偉大な作品群制作したサルゴン2世(シャルキン2世在位:前722年-前705年)の治世とともに新たな首都立ち上がったドゥル・シャルキン(「サルゴン要塞」の意)がそれであり、アッシュル・ナツィルパル2世首都ニムルド凌駕する規模設計された。しかし、彼が戦死すると、息子後継者センナケリブ(シン・アヘ・エリバ、在位:前705年-前682年)はドゥル・シャルキン放棄しニネヴェ彼の王宮として拡張することを選択した。それでも、アッシュル市は帝国宗教的中心であり続け国家アッシュル神殿存在故に帝国聖なる王冠として尊敬を受け続けたセンナケリブ治世中にアキトゥ(Akitu、「新年の家」)が建設され新年祭がこの都市祝われた。多くの王たちがアッシュルの「古い宮殿」に埋葬されたが、サルゴン2世の妻アタリヤ(Ataliya)のような幾人かの王妃は他の首都埋葬された。 アッシュル市は前612年メディア人とバビロニア人(新バビロニア)の連合軍によって占領英語版)された際に略奪され大きく破壊された。

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新アッシリア時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 03:24 UTC 版)

アッシリア」の記事における「新アッシリア時代」の解説

新アッシリア帝国 ← 前934年 - 前609年 → → → → アッシリア版図の変遷 公用語アッカド語アラム語 首都アッシュールカルフドゥル・シャルキンニネヴェ 君主934年 - 前912年アッシュール・ダン2世722年 - 前705年サルゴン2世668年 - 前627年アッシュールバニパル612年 - 前609年アッシュール・ウバリト2世(最後) 変遷 不明xxxxxxxx滅亡609年 詳細は「新アッシリア帝国」を参照 アッシリアが全オリエント世界支配する初の帝国打ち立てるのがこの時代である。この時代古代オリエント史において最も記録史料豊富な時代であり、詳細な政治史復元が可能である。占星術などの記録豊富に残っており、天文学的見地から非常に正確な年代確定が可能であるほか、アッシリア王名表リンム表概要参照)、アッシリア・バビロニア関係史代表される年代誌各種行政文書法律文書、条約記念碑文などが分野偏りがあるものの大量に残存している。アッシュール・ダン2世アダド・ニラリ2世等によって中アッシリア時代後期混乱収められた後、アッシリア王達盛んに遠征行い次々と領土拡大していた。いわゆるアッシリア帝国呼ばれる時代に入るのはティグラト・ピレセル3世時代である。彼はバビロニアヘブライ人記録プルPul)と呼ばれたシリア・エフライム戦争バビロニア遠征フランス語版))。被征服者であるバビロニア人やヘブライ人から憎まれてこの蔑称記録されとされるアッシリアはこの帝国維持するために各種方策講じた。最も有名なものの一つ大量捕囚政策としてしられる征服民の強制移住である。強制移住自体オリエント世界広く見られ手段であるが、アッシリアのそれはその組織性規模において史上例を見ないのである。特にティグラト・ピレセル3世治世以降は、急激に拡大した領土での反乱防止職人確保目的としてたびたび行われた後世はこうした力による強圧的な統治がよく伝えられアッシリア支配特徴付けるものと言われてきたが、アッシリア帝国統治単純に武力によって行われただけでなく、征服地や服属地域文化言語、宗教政治体制に関する情報詳細に収集し、それに基づく飴と鞭使い分けた対応をとったことが同時代記録分析から明らかになっている。こうした異文化情報集積による帝国統治の手法は、アッシリア以降登場した新バビロニア王国アケメネス朝ペルシアのような広域統治行った帝国継承され、その統治技術基礎となった考えられている。 またその国家は、本国たるアッシュルの地と周辺征服地域強く区別された。本国は、中アッシリア時代より拡大していたが、神格化され国土アッシュール神という宗教イデオロギーで結びついていた。各征服地がどのように統治されたのかについては地域差があり、また学者の間でも議論のある所である。バビロニア扱い別格であり、アッシリア王バビロニア王を兼任する場合や、バビロニア代理王を置く場合などがあった。これらを、高度に発達した官僚制度支えていた。ティグラト・ピレセル3世治世からアッシュールバニパル治世までの100年あまりの間にアッシリア歴史上空前政治的統合体を作り上げることになる。 この時代アッシリア政治史における重要案件バビロニア問題であったティグラト・ピレセル3世バビロニアを完全征服して以降も、事あるごとにエラム(フンバンタラ朝(ロシア語版))の支援受けたバビロニア反乱起こし、その統治アッシリア王達の頭痛の種であり続けたティグラト・ピレセル3世以降バビロニア反乱直面しなかった王はほとんどいない。紀元前722年シャルマネセル5世イスラエル王国侵攻し占領したが、直後死去サルゴン2世即位直後バビロニア離反され、ウラルトゥ・アッシリア戦争バビロニア再征服が続く中で死去しセンナケリブが後を継いだエサルハドン時代にはエジプトにまでその領域広がり紀元前671年に全オリエント世界初め統一した。この時代シリアにおけるアッシリア行動ヘブライ人達によって旧約聖書記録されている。アッシュールバニパルエラム滅亡スサ戦い英語版)、en:Fall of Elam)させたものの、アッシュールバニパル治世後半からこうした巨大帝国急激に衰退し彼の死後20年あまりでアッシリア滅亡してしまう。この衰退の原因が何であるのかは分かっていないが、王家内紛広大な領土多様な征服民族統治するシステム構造的な問題噴出したものとも考えられている。北方からスキタイ等の外敵圧迫され領内では各所続発する反乱抑える事が出来なくなっていき、紀元前625年には新バビロニア独立してその勢いはさらに増した紀元前612年新バビロニアメディア攻撃受けて首都ニネヴェ陥落したニネヴェの戦い)。 亡命政権ハラン誕生しアッシュール・ウバリト2世即位エジプトネコ2世同盟結んで新バビロニア抗戦する紀元前609年にはこれも崩壊しアッシリア滅亡した。だが、アッシリアに続く新バビロニアメディアアケメネス朝ペルシアアッシリア行政機構多く取り入れた

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