アッシリア史料における「ギミッラーヤ」とは? わかりやすく解説

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アッシリア史料における「ギミッラーヤ」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 21:46 UTC 版)

キンメリア人」の記事における「アッシリア史料における「ギミッラーヤ」」の解説

8世紀~前7世紀のものとされる新アッシリア時代楔形文字碑文および粘土板に、「ギミッラーヤ」(もしくはガメラーヤ)と呼ばれる集団記されている。音声上の類似からこれキンメリア人比定されている。 紀元前714年頃、ギミッラーヤがウラルトゥの王を破ったという情報アッシリアもたらされた。これによりアッシリアサルゴン2世ウラルトゥ遠征し勝利をおさめるが、征服には至らなかった。紀元前705年、ギミッラーヤがアナトリア侵入したため、サルゴン2世は再び遠征行ったが、その途中で陣没してしまう。紀元前679年紀元前676年頃、サルゴン2世の孫にあたるエサルハドンキリキア地方でギミッラーヤの首長テウシュパとその軍勢撃ち破り祖父の仇を討った紀元前650年紀元前645年頃、リュディアの王ググ(ヘロドトスのいう「ギュゲス」)がギミッラーヤに攻められアッシリア援軍求めたが、間もなく殺され、その墓も略奪された。この頃のギミッラーヤの王はアッシリア史料で「ドゥグダッメ」と記されているが、これはストラボン上記で記す「リュグダミス」のことと考えられている。この後ドゥグダッメがアッシリアアッシュールバニパル在位紀元前668年 - 紀元前627年頃)と同盟結んだ可能性もあるが、紀元前640年頃にキンメリア軍はアッシリア軍に敗れ、ドゥグダッメもキリキア地方死んだストラボンは記す(上記)。

※この「アッシリア史料における「ギミッラーヤ」」の解説は、「キンメリア人」の解説の一部です。
「アッシリア史料における「ギミッラーヤ」」を含む「キンメリア人」の記事については、「キンメリア人」の概要を参照ください。

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