アッシリア史料における「ギミッラーヤ」
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「キンメリア人」の記事における「アッシリア史料における「ギミッラーヤ」」の解説
前8世紀末~前7世紀のものとされる新アッシリア時代の楔形文字碑文および粘土板に、「ギミッラーヤ」(もしくはガメラーヤ)と呼ばれる集団が記されている。音声上の類似からこれをキンメリア人に比定されている。 紀元前714年頃、ギミッラーヤがウラルトゥの王を破ったという情報がアッシリアにもたらされた。これによりアッシリアのサルゴン2世はウラルトゥに遠征し、勝利をおさめるが、征服には至らなかった。紀元前705年、ギミッラーヤがアナトリアに侵入したため、サルゴン2世は再び遠征を行ったが、その途中で陣没してしまう。紀元前679年~紀元前676年頃、サルゴン2世の孫にあたるエサルハドンはキリキア地方でギミッラーヤの首長テウシュパとその軍勢を撃ち破り、祖父の仇を討った。 紀元前650年~紀元前645年頃、リュディアの王ググ(ヘロドトスのいう「ギュゲス」)がギミッラーヤに攻められ、アッシリアに援軍を求めたが、間もなく殺され、その墓も略奪された。この頃のギミッラーヤの王はアッシリア史料で「ドゥグダッメ」と記されているが、これはストラボンが上記で記す「リュグダミス」のことと考えられている。この後ドゥグダッメがアッシリアのアッシュールバニパル(在位:紀元前668年 - 紀元前627年頃)と同盟を結んだ可能性もあるが、紀元前640年頃にキンメリア軍はアッシリア軍に敗れ、ドゥグダッメもキリキア地方で死んだとストラボンは記す(上記)。
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