アッシリアの王妃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 21:14 UTC 版)
「リッバリ・シャラト」の記事における「アッシリアの王妃」の解説
サルゴン2世(前722年-前705年)によって始められた改革以来、サルゴン王朝のアッシリア王たちの王妃は自身に直接従う軍部隊を保有していた。リッバリ・シャラトの軍の中には前652年から前648年にかけてのアッシュルバニパルの兄弟シャマシュ・シュム・ウキンとの内戦で活躍した戦車(チャリオット)の運転手、マルドゥク・シャル・ウツル(Marduk-šarru-uṣur)がいた。 リッバリ・シャラトはアッシュルバニパルの「園遊会」のレリーフでアッシュルバニパルと共に描かれていることで有名である。このレリーフではリッバリ・シャラトは彼女の女中たちに囲まれて二人で食事しており、彼女自身はアッシュルバニパルに対面して高い背もたれのある椅子に座っている。一方のアッシュルバニパルは寝台(couch)に寝そべっている。エラム王テウマン(英語版)の頭が木から吊るされており、夫妻は前653年のエラムに対する戦勝を記念して祝杯を挙げている。リッバリ・シャラトが王の配偶者として高い地位を持っていたことは、このレリーフにおいて彼女が王に非常に近い位置に描かれていることと、彼女のドレスや宝石からわかる。アッシュルバニパルはリッバリ・シャラトよりもさらにやや大きく、また高い位置に描かれており、より大きな力を持っていることが示されている。この「園遊会」のレリーフの際立った特徴の1つは何といってもアッシュルバニパルが王冠を被っていないのに対し、リッバリ・シャラトは被っていることである。またリッバリ・シャラトが座っているのに対し、アッシュルバニパルは寝そべっている事実も重要である。なぜなら、玉座に座ることは神聖な王家の特権であったためである。このことは、場面全体がアッシュルバニパルではなくリッバリ・シャラトを中心として構成されていることを意味する。このレリーフは古代アッシリアにおいて王以外の個人が実質的に宮廷を所有し、さらには王をもてなす場面を描いた現存する唯一の図像である。 「園遊会」のレリーフに加えて、石碑に描かれたリッバリ・シャラトの同時代の描写が知られている。この肖像では、リッバリ・シャラトが植物を用いてある種の儀式的な仕草をしつつ公的な姿勢をとっている。王妃を含むアッシリアの高貴な女性たちは神の好意と加護を得るために定期的に諸神殿への布施と神々への奉納を行った。リッバリ・シャラトによって書かれた奉納碑文の1つでは次のように書かれている。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}女神 [...] 偉大なる [淑女]、彼女の淑女に。世界の王、アッシリアの王、[アッシュルバ]ニパル[の王妃、リッバリ・シャラト]。彼女は赤い金の[...]作った。彼女の最愛の人、アッシュルバニパルの[生命と健康のために]。彼の長寿、彼の王位の末永きこと(のために)、そして彼女自身のために、彼女の生命のために、彼女の長命のために、彼女の王朝に幸あらんことを。(女神)は彼女の夫である王に彼女の言葉を喜ばせ給え。そして彼女(女神)は二人を共に老いさせ給え。(そのために)彼女は(それを)立たせ(それを)奉納するものなり[訳語疑問点]。 ニヌルタ・シャル・ウツル(Ninurta-sharru-usur)のようなアッシュルバニパルの下位の妻たちの息子が何らかの政治的役割を果たすことはなかったと見られることから、リッバリ・シャラトは恐らくアッシュルバニパルの次の王であるアッシュル・エティル・イラニ(在位:前631年頃-前627年頃)とシン・シャル・イシュクン(在位:前627年頃-前612年)の母親であると思われる。アッシュル・エティル・イラニの治世に年代付けられる粘土板で「王母」への言及があることから、リッバリ・シャラトは前631年にアッシュルバニパルが死亡した後も生きていた可能性がある。
※この「アッシリアの王妃」の解説は、「リッバリ・シャラト」の解説の一部です。
「アッシリアの王妃」を含む「リッバリ・シャラト」の記事については、「リッバリ・シャラト」の概要を参照ください。
- アッシリアの王妃のページへのリンク