アッシリアの問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:08 UTC 版)
キリスト教成立前後の古代ギリシアやローマが認識していたアッシリアの歴史とは、ポンペイウス・トログスらが伝える、初代ニヌス王とその王妃である第二代の王セミラミスによってインドにまで進出した最初の大帝国に始まり、サルダナパールの死とともに滅亡する1200年間にわたる伝説的物語を指した。そして、このアッシリアを滅ぼし次代の広域支配を打ち立てた国がメディアだと考えていた。これは、聖書記述内容とは大きく食い違っていた。聖書が伝えるアッシリアの始祖アシュルなどローマ人は知らず、また「ダニエル書」で暗喩された4帝国が連続的に興亡するというような認識ではなかった。 この問題に対し、エウセビオスは『年代記』にて、あえて聖書記述への忠実さを放棄し、「解釈」を以って組み替えている。具体的には、ローマ人のアッシリア観を採用してこれを1番目の帝国に置き換えた。この解釈によってイスラエル王国とアッシリアが並列することになり、普遍史の第2期と第3期が重なってしまった。この問題に対する論理的説明は後世に残される課題となった。
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