アッシリアの滅亡
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「エジプト第26王朝」の記事における「アッシリアの滅亡」の解説
一方でアッシリアではアッシュールバニパル王の治世末期頃から急速に弱体化した。東方ではイラン高原を中心としたメディア が勢力を増しつつあり、紀元前625年頃までにはバビロニア総督ナボポラッサルもアッシリアに反旗を翻して独自の王国を築いた(新バビロニア)。メディアと新バビロニアは同盟を結んでアッシリアを攻撃し、これを破って首都ニネヴェを始めとした中心地帯を制圧する勢いを見せた。 プサメティコス1世はこの事態に対し、かつての支配者アッシリアを助ける道を選び、紀元前616年にはシリアへ出兵して新バビロニア軍と干戈を交えた。しかし大勢は変わらず、間もなくメディアと新バビロニアの連合軍によってアッシリアの首都ニネヴェが陥落、アッシリア貴族であったアッシュール・ウバリト2世がハランへと逃れた。 紀元前610年にプサメティコス1世が没すると、息子のネコ2世が王位を継承し、なおもアッシリアへの支援を続け、シリアへの再度の出兵に踏み切った。彼は途中でユダ王ヨシヤを殺し、パレスチナを通過してハランのアッシュール・ウバリト2世と合流したが、新バビロニア軍との戦いに敗北して退却を余儀なくされ、ここにアッシリアが滅亡した(紀元前609年)。 アッシリアの救出に失敗したネコ2世はシリア地方で覇権を確立するべく策動したが、アッシリアを破った新バビロニア王ナボポラッサルは息子のネブカドネザル2世に命じてシリアのエジプト軍を攻撃した。エジプトと新バビロニアのシリアにおける戦いは数年間続いたが、ユダ王国を破り(メギドの戦い (紀元前609年))、遂に紀元前605年、カルケミシュの戦いでエジプト軍は決定的な敗北を蒙り、ネコ2世のシリア政策は完全に頓挫した。ネブカドネザル2世が余勢を駆ってエジプトにまで進軍してきた時にはこれを撃退することに成功したものの、以後シリア地方での軍事活動を行うことはできなかった。
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アッシリアの滅亡
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「新アッシリア帝国」の記事における「アッシリアの滅亡」の解説
アッシュルバニパルの死後、多くの王位主張者による苦しい内戦が発生し、帝国は急速に崩壊し始めた。アッシュル・エティル・イラニがアッシュルバニパルの跡を継いだが、彼の治世は短く、紀元前627年に彼の兄弟であるシン・シャル・イシュクンが王になった。宦官シン・シュム・リシルによる反乱に対処した後、シン・シャル・イシュクンはさらに大きな脅威に直面した。バビロニアの属州が、アッシリア国内の激変につけ込んで反乱を起こしたのである。反乱は、それまではよく知られていなかったナボポラッサルによって主導され、紀元前625年に発生した。その後は、バビロニア中心部において長い戦いが続いた。最初にナボポラッサルはバビロニア地方におけるアッシリア帝国の中心地、ニップルの占領を試みたが、これはシン・シャル・イシュクンによって阻まれた。しかし、バビロンにおける一般民衆による反乱の後、ナボポラッサルはバビロンを確保し、同じ年にバビロン王になった。 その後、シン・シャル・イシュクンは、さらに多くの領土を失った。紀元前624年にはウルクを取り戻すことに成功したが、それもすぐに奪い返された。紀元前623年、シン・シャル・イシュクンが大軍を率いてバビロニアへ向かい、反乱の完全鎮圧を目指したが、この時、さらにもう一つの戦いが、こともあろうかアッシリア中心部で発生した。この反乱を指揮した将軍の名前は分かっていないが、バビロニアの戦線に向けて送られた援軍が方向を転換し、妨害を受けることなく首都ニネヴェにまで到着したのである。この人物はニネヴェに入ってアッシリア王を名乗った。この問題を放置などできるはずもなく、シン・シャル・イシュクンは本国へ戻ってこれを鎮圧したが、これにより、バビロニア問題を解決するための貴重な時間が失われ、一方で、ナボポラッサルは自分の地位を強固なものとすることができた。 紀元前620年、ナボポラッサルはついにニップルを占領し、バビロニアの主となった。これらの出来事が展開していく中で、メディアもまたアッシリアの支配から独立し、国力を増強した。紀元前615年の10月または11月、キュアクサレス王率いるメディア軍がアッシリアに侵入し、アッシリア軍に対する最終的な大規模遠征の足がかりとして、都市アラプハ周辺地域を制圧した。同じ年、メディア軍はシン・シャル・イシュクンをタルビスの戦いで破り、そして紀元前614年、アッシュルを占領。都市を略奪して多くの住民を殺した。ナボポラッサルは、略奪が既に始まった後にアッシュルに到着し、キュアクサレスと面会した。彼らは反アッシリア同盟を結び、ナボポラッサルの子ネブカドネザルとメディアの王女を婚姻させることとした。今や、アッシリアは圧倒的な劣勢に立たされたのである。それから4年間の苦しい戦いを経て、紀元前612年、連合軍はついにアッシリアの首都ニネヴェを包囲し、3か月の包囲戦の後に城壁を突破して市街戦へとなだれこんだ。都市を陥落させたのは、メディア軍の働きによるところが大きい。シン・シャル・イシュクンの最期は明らかではないが、一般的にはニネヴェの防衛戦において死んだとされている。ニネヴェの陥落は、アッシリア帝国の終焉の始まりだった。 アッシュル・ウバリトという名の将軍がアッシリア王を名乗った。アッシリアはエジプト王朝のファラオ、ネコ2世から時機を逸した軍事支援を受け、紀元前609年までハッラーンで持ちこたえた。紀元前614年にアッシュルが破壊されてからは、伝統的な戴冠式を行うことは不可能だったので、アッシュル・ウバリト2世は新たな首都ハッラーンで王位に就いた。バビロニア人が彼をアッシリア王と見なす一方で、わずかに残った民はそのようには見なさず、彼の称号は王太子のままだった(mar šarri、「王の息子」の意)。しかしながら、アッシュル・ウバリトが公式に王でなかったことは、その正統性に疑義を抱かれたわけではなく、単に正式な儀式を済ませていないと見なされていたに過ぎない。エジプトの支援はその後も続き、アッシリア軍は、増大するバビロニアとメディアの国力を抑えようという絶望的な試みに挑戦した。 紀元前609年、エジプト軍はメギドの戦いで、ヨシヤ王率いるユダ軍を破り、ようやくアッシリア軍の残党の下にたどり着いた。紀元前609年のハッラーンにおける最後の戦いで、アッシリア・エジプト連合軍はバビロニア・メディア連合軍に敗れ、独立国家としてのアッシリアは消えた。アッシュル・ウバリト2世がハッラーンで殺されたのか、生き延びたのかも分からないが、いずれにせよ、彼は歴史から消えた。紀元前605年、かつてのアッシリア軍の残党も参加して、別のエジプト軍がバビロニア軍と戦ったが(カルケミシュの戦い)、これも敗北に終わった。 さらに年月が流れて紀元前6世紀半ば、バビロニアとアッシリアはペルシア帝国の属州になった。紀元前520年、アッシリアは独立を目指す最後の試みとして、アケメネス朝に対する大規模な反乱を行ったが、ダレイオス大王に鎮圧されて終わった。 新アッシリア帝国は滅びたが、アッシリアの文化は後継の諸帝国、例えばメディア、ペルシア、インド・イラン派の人々など、かつてアッシリアに支配されていた人々に影響を残した。
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アッシリアの滅亡
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一方でアッシリアではアッシュールバニパル王の治世末期頃から急速に弱体化した。東方ではイラン高原を中心としたメディア が勢力を増しつつあり、紀元前625年頃までにはバビロニア総督ナボポラッサルもアッシリアに反旗を翻して独自の王国を築いた(新バビロニア)。メディアと新バビロニアは同盟を結んでアッシリアを攻撃し、これを破って首都ニネヴェを始めとした中心地帯を制圧する勢いを見せた。 プサムテク1世はこの事態に対し、かつての支配者アッシリアを助ける道を選び、紀元前616年にはシリアへ出兵して新バビロニア軍と戦戈を交えた。しかし大勢は変わらず、間もなくメディアと新バビロニアの連合軍によってアッシリアの首都ニネヴェが陥落、アッシリア貴族であったアッシュール・ウバリト2世がハランへと逃れた。 その後、プサムテク1世は紀元前610年に没し、息子のネコ2世が王位を継承した。エジプトはその後もアッシリアへの支援を続け、シリアへの再度の出兵に踏み切った。しかし新バビロニア軍との戦いに敗れ、紀元前609年にアッシリアは滅亡することになる。
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