アッシリアの盛衰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 07:16 UTC 版)
「前1200年のカタストロフ」の記事における「アッシリアの盛衰」の解説
前14世紀、アッシリアはミタンニの圧力に悩まされていたが、ミタンニがヒッタイトの攻撃によって衰退すると勢力を増した。中期アッシリア時代と呼ばれるこの時代、アッシリア王アッシュルウバリト1世はエジプトとの対等関係を要求したことがアマルナ文書で確認されており、前13世紀以降、アッシリアはさらに勢力を増し、シリアへ進出、これはエジプトとヒッタイトの間で友好関係を結ばせる結果となった。 そして前1114年に即位したティグラトピレセル1世はニネヴェへ遷都、中期アッシリア法典を制定するとアッシリアは絶頂期に入ったが、すぐさま衰退期に入ることになる。 しかし前10世紀、アッシュルダン2世以降、アッシリアでは徐々に革新への動きが見られ、前9世紀前半、アッシュルナツィルパル2世がカルフへ遷都、アッシリアは再び繁栄を迎える。前9世紀後半から前8世紀半ばまでは停滞・現状維持状態に入るが、ティグラトピレセル3世が即位すると再び勢力を盛り返した。
※この「アッシリアの盛衰」の解説は、「前1200年のカタストロフ」の解説の一部です。
「アッシリアの盛衰」を含む「前1200年のカタストロフ」の記事については、「前1200年のカタストロフ」の概要を参照ください。
- アッシリアの盛衰のページへのリンク