アッシリア帝国の崩壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 04:05 UTC 版)
「シン・シャル・イシュクン」の記事における「アッシリア帝国の崩壊」の解説
詳細は「メディア・新バビロニアのアッシリア征服(英語版)」を参照 前615年、ナボポラッサルとバビロニア軍はアッシリアの儀式的・宗教的中心であり、当時アッシリア帝国の最南端に残されていた都市であったアッシュル市を攻撃した。シン・シャル・イシュクンは速やかに軍を再編して反撃し、アッシュル市の包囲を解かせ、ナボポラッサルをタクリート(ティクリート)に撤退させた。シン・シャル・イシュクンはさらにタクリートでナボポラッサルを包囲したが、最終的にはこれを諦めなければならなかった。両国の戦闘はアッシリアが守勢に回る局面に移っていたが、この時点では一般的なメソポタミアの慣行に従って戦いが行われており、攻撃、反撃、後退があったものの、両者とも決定的な対決をする自信も、それを強要する手段も持ち合わせていなかった。敗北と後退を繰り返したにもかかわらず、アッシリア軍はなお強力であり、素早く展開することが可能であった。 前615年の末、または前614年、キュアクサレス統治下のメディア軍がアッシリアに侵入し、シン・シャル・イシュクンに対する遠征の準備としてアラプハ市周辺の地域を征服した。アッシリアとメディアの関係について論ずる古い史料は豊富に存在するが、キュアクサレスの侵攻に至る時代のものは現存しておらず、そのためメディアによる突然のアッシリア攻撃の政治的文脈・理由は不明である。恐らく、アッシリアとバビロニアの戦争がメディアの経済を混乱させ、直接的な攻撃を引き起こしたのであろう。 前614年7月または8月、メディア軍はカルフ(ニムルド)市とニネヴェ市に対する攻撃に取り掛かかり、タルビス市の占領に成功した。彼らは古代のアッシリアの中枢アッシュル市も包囲して占領することに成功し、略奪し多くの住民を殺害した。アッシュル市に対する残虐な略奪は全オリエントの人々に衝撃を与えた。アッシリアの敵であるバビロニアの年代記ですら、メディア人は不必要に残忍であると言い、「偉大なる民に恐るべき敗北を与え、彼らからひたすらに略奪した」と述べている。ナボポラッサルは略奪が開始された後になってからアッシュル市に到着し、キュアクサレスと面会し同盟を結んで反アッシリアの協定に署名した。バビロニアとメディアの条約はナボポラッサルの息子であり後継者のネブカドネザル2世とキュアクサレスの娘アミュティス(英語版)の結婚を通じて確定された。アッシュル市の陥落後、冬の始まりと共にメディア軍とバビロニア軍は翌年のさらなる遠征のためにそれぞれの本国に帰還した。アッシリア人は彼らの置かれている状況の深刻さを認識していなかったように思われる。彼らはこの一時的な休戦帰還を利用して後退せず、防御姿勢に移ることもしなかった。ニムルド市の損害を修復することなく、民衆は市壁を解体して将来の改修工事の準備をした(この改修が実際に行われることは永遠になかった)。アッシリアに敵を入れないためようにするため、シン・シャル・イシュクンは前613年にも攻勢を続け、当時アッシリアが支援していた現地部族の反乱鎮圧に従事していたナボポラッサルの軍勢をユーフラテス川中流で攻撃した。シン・シャル・イシュクンは包囲されていた反乱部族の都市ラヒル(英語版)市を救援することに成功したが、ナボポラッサルの軍は戦闘が始まる前に撤退した。この頃、シン・シャル・イシュクンは自分の王国に降りかかった危機を遂に認識し、和平を求めてナボポラッサルに書簡を送った。シン・シャル・イシュクンはナボポラッサルにこれ以上の流血を避けることを嘆願し「彼の憤激する心を鎮める」べきであると書いた。しかし、ナボポラッサルは興味を示さなかった。シン・シャル・イシュクンはあまりに長く待っていたため、彼が提供できる物はバビロニアとメディアにとってはもはや戦闘によって確保可能なものでしかなかった。ナボポラッサルは厳しい返事を返し、その中で「余はニネヴェを根こそぎにし、その地の基礎を余は消し去る」と宣言した。これらの手紙を含む粘土板文書は現存しておらず、知られている文書は数世紀後のセレウコス朝時代に作られた粘土板から得られたものである。これらの手紙が実物のコピーであるのか、もっと古いオリジナルであるのか、あるいは完全な偽造品であるのかは議論のあるところである。 前612年4月、ナボポラッサルの治世14年目の始まり(バビロニア暦の新年は春分に最も近い新月の日に始まった)と共に、メディアとバビロニアの連合軍はニネヴェへと進軍した。シン・シャル・イシュクンは首都ニネヴェの最終的な防衛のために軍を集結させたが、この巨大な都市を守るには不十分であった。同年の7月から8月にかけて、アッシリアの首都ニネヴェはメディアとバビロニアの連合軍に包囲された。そして8月に城壁が突破され、凄惨な破壊が長期間行われた。街は略奪され、アッシリア王たちの肖像はばらばらにされ、10歳児までもが大量殺戮された後、ニネヴェ市全体が破壊され焼き払われた。シン・シャル・イシュクンの運命ははっきりとわからないが、ニネヴェでの防衛戦で死亡したとするのが一般的である。
※この「アッシリア帝国の崩壊」の解説は、「シン・シャル・イシュクン」の解説の一部です。
「アッシリア帝国の崩壊」を含む「シン・シャル・イシュクン」の記事については、「シン・シャル・イシュクン」の概要を参照ください。
- アッシリア帝国の崩壊のページへのリンク