アッシリア滅亡の原因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 04:05 UTC 版)
「シン・シャル・イシュクン」の記事における「アッシリア滅亡の原因」の解説
アッシリア(新アッシリア帝国)とその文明が滅亡した原因として、アッシュル・エティル・イラニとシン・シャル・イシュクンの王位継承の争いがアッシリアを弱体化させたという理由が最も一般的に広まっている考えの一つであるが、これを事実であることを裏付けるような同時代史料は無い。この兄弟の争いに触れた碑文史料は存在しない。アッシュル・エティル・イラニとシン・シャル・イシュクンの即位直後にはいずれも反乱が発生しているが、これらは小規模であり速やかに処理されている。アッシリアの王位候補者間の長引く内戦がアッシリアの滅亡の原因となったわけではない。 シン・シャル・イシュクンの治世におけるアッシリアの滅亡の原因は、アッシリアが初めて南部メソポタミアを征服して以来歴代の王が悩まされてきた「バビロニア問題(Babylonian problem)」を解決できなかったことである可能性が高い。絶え間なく続くバビロニアの反乱を様々な方法を用いて解決しようとサルゴン王朝の王たちは多くのことを試みた。センナケリブはバビロン市を破壊し、エサルハドンはそれを再建した。にもかかわらず、反乱と暴動は常に発生し続けた。ナボポラッサルの反乱はアッシリア人に対するバビロニア人の反乱の長い歴史の最後の一コマであり、シン・シャル・イシュクンはそれを何年にもわたる挑戦にもかかわらず押しとどめることができなかった。このことがアッシリアの命運を決定づけた。新バビロニアの脅威とメディアの勃興(アッシリアは長年にわたりメディアに繰り返し遠征を行い、統一勢力の形成を阻止しようと試みていた)が、最終的にはアッシリアの崩壊へと繋がっていった'。 アッシリアの破滅的な敗北の原因をアッシリア軍の弱体化と無能な王に求めるのは簡単であるが、シン・シャル・イシュクンが無能な支配者であったことを示すような証拠は存在しない。アッシリアは500年にわたり本国への侵攻を受けておらず、外国からの本国に対する攻撃への備えができていなかった。彼らの経験において必要とされていなかったため、防衛計画は存在していなかった。シン・シャル・イシュクンは防衛に軍を用いることはなく、繰り返し攻勢を続けていたが、これはアッシリアの戦争の伝統的な方法に完全に忠実なものであった。彼は敵国の反乱を支援し、側面作戦を用い、敵陣の一点に集中して攻撃を行うことで敵に挑むという、かつての祖先たちが用いて成功した実績のある原則に従った。恐らく彼は別の戦術を用いることはなかった。アッシリア人の思考法を考慮すれば、彼は有能な軍事指導者であり、軍を合理的かつ戦略的に配備していた。通常の戦争ならば彼は勝利者となっていたかもしれない。しかし彼には、敵国を征服するための戦争ではなく、また数に勝り自国を破壊しようとする敵に対する防衛を続ける備えが全くできていなかった。
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