アッシリア王シャムシ・アダド1世
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「イシン・ラルサ時代」の記事における「アッシリア王シャムシ・アダド1世」の解説
エシュヌンナに侵入していたアムル人イラ・カブカブの勢力は、彼の死後息子のシャムシ・アダド1世によって受け継がれた。この頃には彼らの支配する領域はエシュヌンナの北側に移動していた。シャムシ・アダド1世はエカラトゥム(英語版)市を拠点にアッシュール市を攻略しアッシリアの王位についた。当時アッシリアは錫を中心とした交易によって経済的繁栄を享受しており、それを基に彼は活発な征服活動を行っていった。 シャムシ・アダド1世の征服活動の中でも最大のものがマリに対する攻撃である。父イラ・カブカブと争ったヤギト・リムは既に亡く、その息子ヤフドゥン・リムが王位についていた。両者の争いは激しかったが、最後にはシャムシ・アダド1世が勝利し、紀元前1801年頃、マリはアッシリアの支配下に入った。更に周辺領域も統合して、ここに北メソポタミア全域を支配する大国が出現した。 当初シャムシ・アダド1世と敵対していたエシュヌンナを始め多くの国がアッシリアと同盟関係を結び、また幾つかの国は属国となった。バビロンのハンムラビ王もまた、シャムシ・アダド1世との友好関係維持に著しい努力を払い、当時の彼が造った碑文にはシャムシ・アダド1世が連名で登場する。また、西方の国カトナもアッシリアの同盟国となった。 しかしアッシリアはシャムシ・アダド1世が紀元前1781年に死去するや瞬く間に弱体化し、その覇権は失われた。これによって、「一人で十分強力な王はいない」といわれる群雄割拠の状態となった。
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