アッシリアとバビロニア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 04:05 UTC 版)
「シン・シャル・イシュクン」の記事における「アッシリアとバビロニア」の解説
前7世紀半ば、新アッシリア帝国は中東全域を支配していた。強力な常備軍、そして洗練された政府機構によって、アッシリア人はそれまでの歴史に類を見ない、高度に組織化された大帝国を構築することに成功していた。南のバビロニアもかつては強大な王国であったが、内紛と常備軍の欠如ゆえに基本的にはアッシリアよりも弱体であった。バビロニアの住民は異なる価値観と目標を持つ様々な民族集団に分かれていた。キシュ、ウル、ウルク、ボルシッパ、ニップル、そしてバビロン自体のような大半の都市を古来からのバビロニア人が支配していたが、しばしば互いに小競り合いを繰り返す首長たちによって率いられたカルデア人の諸部族が最南部の大部分を支配していた。アラム人は定住地帯の周縁に居住し、周囲の領域を略奪することで悪名高かった。これら主要な3つのグループの内紛のために、バビロニアはしばしばアッシリアにとって魅力的な遠征先となっていた 。前14世紀の中アッシリア時代にアッシリアが台頭して以来、両国は競り合い続け、前8世紀にはアッシリアが一貫して優位を手にした。バビロンの内的・外的な弱さにより、前729年にはアッシリア王ティグラト・ピレセル3世がバビロンを征服した。 アッシリアが大帝国へと拡大する間、アッシリア人は様々な近隣諸王国を征服し、属州として併合するか、あるいは属国へと変えていった。アッシリア人はバビロンの長い歴史と文化を崇拝していたため、バビロンは任命された属王による統治かアッシリア王の兼任による同君連合のいずれかによる支配という形で、完全な王国としての形態が残された。アッシリアとバビロンの関係は後の時代のギリシアとローマの関係に似たものであった。アッシリア文化、文学、伝統の多くはバビロニアから導入されたものであった。アッシリアとバビロニアはまた、同じ言語(アッカド語)を共有していた。両国の関係はある意味では感情的なものであり、新アッシリア時代の碑文では両者を男女に見立ててアッシリアを「夫」、バビロンを「妻」という比喩で表現している。アッシリア学者エッカート・フラーム(Eckart Frahm)の言葉によれば「アッシリア人はバビロンを愛していたが、同時に彼女を支配したがっていた」。アッシリア人はバビロンを文明の源として尊敬していたが、政治的問題においては受動的であり続けることを期待しており、アッシリアの「花嫁たるバビロニア」は繰り返しこれを拒否していた。 前8世紀と前7世紀を通じて、戦争による暴力的な征服からアッシリア王あるいはその代理人(しばしばアッシリア王の息子または兄弟がこれを担当した)による支配まで、アッシリア人は様々な戦略を持ってバビロニアの臣民を鎮撫しようと務めた。バビロニアの都市住民を宥めることにはある程度成功していたが、アラム人やカルデア人を手なずけることはできず、機会を捉えては彼らは繰り返し反乱を起こした。バビロニアの分離を認めるには経済的にも戦略的にもあまりに重要であると見なされ、この地域を維持するために多大な努力が費やされたが、アッシリア人が行ったどのような試みも、最終的には反乱と内戦へとつながっていった。アッシリアが長期に渡ってバビロニアを制御することは不可能であったことが示されているため、現代の研究者はこれを「バビロニア問題(Babylonian problem)」と呼んでいる。
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