アッシリアとバビロニアのラブサリス
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「ラブサリス」の記事における「アッシリアとバビロニアのラブサリス」の解説
アッシリアの王宮には、サリス(šarēši、LÚ.SAG)という影響力のある一団の高官がいた。これは通常「宦官」と訳されるが、一部のアッシリア学者は、サリスと呼ばれる高官全員が必ずしも宦官であるとは限らないとしている。この一団の廷臣たちの最大の特徴は、ヒゲを剃っていることだった。サリスに関するほとんどすべての現存する円筒印章では、ヒゲのない人物が神または女神の前で祈る滑らかに剃られた姿で描かれている。文書でも外観の違いについても言及されている。文中でサリスではない高官に言及するときは、「ヒゲのある廷臣」(šaziqni)と書かれている。王に最も近く仕えるサリスたちは王の安全に責任があり、王令または王命を伝達する役も担った。彼らはしばしば都市の管理者または州の総督にも任命された。 サリスたちの監督は、アッシリア王の最重要な臣下の1人であるラブサリス(「宦官長」と訳されることも多い)の仕事だった。現存する文書から、ラブサリスが宮廷の運営管理だけでなく、軍隊の指揮官達を監督するという軍事的な機能を果たしていたことも分かっている。アッシリアの記録では、この役職はシャムシ・アダド5世(紀元前823年-紀元前811年)の年誌に初めて登場し、ナイリへの二度目の遠征がムタリス・アッシュルという名前のラブサリスに指揮されることになっていると書かれている。次に、新アッシリアの紀元前798年、アダド・ニラリ3世(紀元前810年-783年)の治世中にリンム(エポニム)を務めたムタッキル・マルドゥクという名のラブサリスが記録されている。ナブ・サル・ウスルという名のラブサリスは、彼の忠勤に対する報酬として、アッシュルバニパル王(紀元前668年-紀元前627年?)から土地を授与されることになっていた。ラブサリスのシン・シュム・リシルは、アッシュルバニパルの息子であるアッシュル・エティル・イラニの死後、おそらく紀元前627年に、数か月間アッシリアを支配していた。
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