アッシリアのエジプト征服
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:34 UTC 版)
「エジプト第25王朝」の記事における「アッシリアのエジプト征服」の解説
紀元前690年にシャバタカ王が死去するとタハルカ(英語版)が王位を継承した。タハルカの即位についてはちょっとしたエピソードが残されている。カワ碑文とよばれる文書によれば、タハルカの即位に当たって、彼が20歳の時(紀元前701年)以来会わなかった母親が、王となった彼に会いにメンフィスを訪れたという。 彼女は陛下の麗しさを眺めて、イシス神が息子のホルス神が父の玉座で戴冠したのを見た時の如くに、この上なく喜んだ。 タハルカの即位当初はアッシリアの脅威が遠のいた。それはアッシリアで紀元前681年にセンナケリブが暗殺され、王位を巡って内戦が勃発したためである。この一時的な平和の間にタハルカは熱心に内政に取り組み、大規模な建築を数多く残している。特に有名なのはカルナックのアメン神殿における巨大柱廊の再建であり、現在でもその威容を残している。対外的には、紀元前673年にパレスチナのアシュケロンの対アッシリア反乱を支援してこれを成功させた。 しかしタハルカの成功はアッシリアの内政安定とともに失われた。アッシリアの王位継承の内戦を、母ナキアの支援の下で勝利したエサルハドンは、紀元前671年に大軍を率いてエジプトへと向かってきた。タハルカはこのアッシリア軍の侵攻を食い止めることができず、遂にアッシリア軍はエジプト本国へと侵入、タハルカは下エジプトで行われた戦いで敗れ、メンフィスが陥落した。その際にはタハルカ王の親族の大半がアッシリアに捕らえられ、タハルカ自身は負傷してテーベへと逃走した。アッシリア王エサルハドンはこの勝利を高らかに謳った碑文を残している。 …大いなる神々に呪われたエジプトおよびエチオピアの王タハルカに対して、イシュフブリから彼の居城メンフィスまで、15日の行程を、余は毎日休止することなく殺戮を行った。彼自身に対しても、余は5度矢の尖で打ち、癒しがたい傷を負わせた。余は彼の居城メンフィスを包囲し、坑道、破口、攻城梯子を用いて、半日のうちに占領した。余は略奪し、破壊し、火をかけた。彼の妃、後宮、太子ウシャナフル、その他の王子や王女たち、彼の財貨、馬、牛、小家畜を数え切れないほど、戦利品としてアッシリアに運んだ。… 更に彼は「上下エジプト、及びエチオピアの王」を称しており、ヌビアに至る全エジプトを征服したと誇っている。しかしこれに関しては明白に誇張であり、テーベに逃走したタハルカはその地でなお支配を維持していたことが、彼が行った儀式などに関する碑文から確認できる。 タハルカはなおアッシリアに対する抗戦を続けており、エサルハドンはこれを鎮定するために紀元前669年に再度エジプトに遠征した。しかしその途中で急死し、アッシリア王位はアッシュールバニパルが継承した。アッシュールバニパルは一旦軍を引き上げさせたため、タハルカはこれに乗じてメンフィスを奪回し、下エジプトでもこれに連動して反アッシリアの反乱が発生した。
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